穢れを祓うのは神職の独占ではない。日本人は昔から武装していない。傭兵も雇っていない。日本人が武装していたのは戦国のほんの少しの期間である。日本人の感性では血は穢れなのです。ゆえに出産は日常生活で最大の穢れだったのでしょう。動物の屠殺もまた穢れだった。いずれの穢れもそれらを我々が忌避しながらもやむ得ず触れる時には、すでに尊いものに昇華しているのである。
祓うとは共同体の中から神域に穢れを封印するということで、掃除ではない。むしろ穢れの原因は万古不変のままそこにある。
穢れの本質は尊いものだ。忌避しながら祀る。この感覚を忘れている現代人は靖国をただの墓碑銘の集まりのように思っている。
戦いは非日常の穢れであるが、我々が戦死者を英霊と呼ぶ。それは、穢れの封印の中でその尊い行為が永遠であれと望むからで、戦争美化ではない。むしろこの世に残された者たちの共同体を穢れの内訌から共同体を守るために祀るのである。
究極の平和主義の方法が穢れを祀るという価値フィルターなのだ。
祀ることによって共同体の中の亀裂の発生を避ける。このような知恵のある方法は世界で類例を見ない。
日本人の戦い方
古来、日本人の祖先は共同体社会のウチに神域をつくり、聖俗との境界に祠を置いた。
ウチとは個人、家族、共同社会、国の再生の世俗の内部。
やがて再生する世俗であればこそ、日本人はウチなる穢れを清め邪鬼を祓い避けてきた。
日本人は神域を大切にし、これが穢れると二度と再生しないと信じている。