「国家は、正義に対する自らの解釈ならびに死活的な関心事に対する自らの考え方のために、すすんで戦うときにのみ生存できるのである。試練は、どこで一線を引くのか、またどの問題のために戦うのかが認識されたときに、やってくるのである。」ヘンリー A キッシンジャー『核兵器と外交政策 10章理念の必要性 4節 (p283)』
核兵器は戦争と平和の姿を変えた。1957年のキッシンジャーの言葉によれば、戦うことが前提であり、試練が前提である。これは米国の外交委員会の報告であるが、同時に世界の変貌を正式に宣言したものであった。もちろん冷戦時代は終わった。1957年のソ連との戦いのような単純な姿ではないが、戦争と平和の本質の変貌はここに始まり、今日に続いている。
その変貌を語る上で、日本人が人類最初の実験台になったことも忘れてはいけない。それまでの戦争の終わり方は講和であり、交渉により戦闘の終わりを合意するものであった。しかし核兵器は相手を滅ぼすオプションであって、講和のオプションではない。つまり無条件降伏は核兵器攻撃と表裏一体のものであるというのが、現代の戦争と平和の変貌である。(相手国指導者の殲滅、日本に関して言えば極東軍事裁判もまた無条件降伏後の占領政策の一部と考えれば良い)
そのようなこともすっかり忘れてしまった日本人は、情けないことにひたすら戦争が過ちであったと思い起こすだけである。しかし出来事の本質を思い起こしてほしい。『戦争と平和の本質変貌』という過ち犯したのは日本ではない米国だ。最終兵器を打ち込まれた国家は講和を選択することはできない。なぜならば相手国も核兵器を打ち込まれるだけの悪のレッテルをはらなければとても絶滅兵器など使用できないからだ。「国家は、正義に対する自らの解釈ならびに死活的な関心事に対する自らの考え方のために、すすんで戦うときにのみ生存できるのである。」とキッシンジャーの言う米国の生存とはそういう決意である。
私にとってのマキャベリズムは、本質的に戦争と同じである。キッシンジャーはまたマキャヴェッリを引用してこのように言う。
「こちらは決してやろうとしないだろうと敵が考えていることを、実行することほど簡単なことはない。」
つまり国家にとって不測の状況はいつでも起こりうるという覚悟が必要なほど緊迫した状況が1957年だった。いまは冷戦後の世界だから、不測の状況は起きないだろうか?むしろ逆であろう。
世界はより複雑に連鎖している。すでに米ソだけが核保有国ではなく、情報は光のように伝わる。現実と仮想現実の区別がつかないほど精巧に証拠記録を作ることができる。仮に全ての国家が最善を尽くしても予期しない危機が突然始まる可能性は冷戦時代以上にある。相手国が核を保有している場合の局地戦はいっそう複雑である。
今竹島の大統領占領地訪問事件が微妙に北朝鮮に影響を与えている。黄海の米韓軍事演習に北朝鮮が攻撃を仕掛けるわけがないと誰もが思っているが、大規模合同演習ほど情報が開示され兵站が脆弱で本物による不意打ちを喰らわせるに良いタイミングはない。核の反撃があると仮定した時に現場司令官がどれほど判断に時間をかけられるかは冷戦の時よりも難しいだろう。
核兵器は戦争と平和の姿を変えた。1957年のキッシンジャーの言葉によれば、戦うことが前提であり、試練が前提である。これは米国の外交委員会の報告であるが、同時に世界の変貌を正式に宣言したものであった。もちろん冷戦時代は終わった。1957年のソ連との戦いのような単純な姿ではないが、戦争と平和の本質の変貌はここに始まり、今日に続いている。
その変貌を語る上で、日本人が人類最初の実験台になったことも忘れてはいけない。それまでの戦争の終わり方は講和であり、交渉により戦闘の終わりを合意するものであった。しかし核兵器は相手を滅ぼすオプションであって、講和のオプションではない。つまり無条件降伏は核兵器攻撃と表裏一体のものであるというのが、現代の戦争と平和の変貌である。(相手国指導者の殲滅、日本に関して言えば極東軍事裁判もまた無条件降伏後の占領政策の一部と考えれば良い)
そのようなこともすっかり忘れてしまった日本人は、情けないことにひたすら戦争が過ちであったと思い起こすだけである。しかし出来事の本質を思い起こしてほしい。『戦争と平和の本質変貌』という過ち犯したのは日本ではない米国だ。最終兵器を打ち込まれた国家は講和を選択することはできない。なぜならば相手国も核兵器を打ち込まれるだけの悪のレッテルをはらなければとても絶滅兵器など使用できないからだ。「国家は、正義に対する自らの解釈ならびに死活的な関心事に対する自らの考え方のために、すすんで戦うときにのみ生存できるのである。」とキッシンジャーの言う米国の生存とはそういう決意である。
私にとってのマキャベリズムは、本質的に戦争と同じである。キッシンジャーはまたマキャヴェッリを引用してこのように言う。
「こちらは決してやろうとしないだろうと敵が考えていることを、実行することほど簡単なことはない。」
つまり国家にとって不測の状況はいつでも起こりうるという覚悟が必要なほど緊迫した状況が1957年だった。いまは冷戦後の世界だから、不測の状況は起きないだろうか?むしろ逆であろう。
世界はより複雑に連鎖している。すでに米ソだけが核保有国ではなく、情報は光のように伝わる。現実と仮想現実の区別がつかないほど精巧に証拠記録を作ることができる。仮に全ての国家が最善を尽くしても予期しない危機が突然始まる可能性は冷戦時代以上にある。相手国が核を保有している場合の局地戦はいっそう複雑である。
今竹島の大統領占領地訪問事件が微妙に北朝鮮に影響を与えている。黄海の米韓軍事演習に北朝鮮が攻撃を仕掛けるわけがないと誰もが思っているが、大規模合同演習ほど情報が開示され兵站が脆弱で本物による不意打ちを喰らわせるに良いタイミングはない。核の反撃があると仮定した時に現場司令官がどれほど判断に時間をかけられるかは冷戦の時よりも難しいだろう。