『日本人に違和感を感じるのは「信じすぎ」だと言うこと。民主主義も万全ではない。それなのに民主主義は絶対的な善でそれに任せればすべて上手く行くと思っている。(「日本人へ リーダー篇」塩野七生)』
野田佳彦首相はこのように言った
『「 私は、尊敬する政治家の一人にロバート・ケネディがおります。
「理想だけを追いかけていたんでは政策遂行できない。現実だけを追いかけていたんでは政治に涙がない、ロマンがない。必要なことは、幻想なき理想主義。」
この言葉が、今大変胸にしみているところでございます。 』
これが舶来品を信じすぎというものの典型です。
自分たちで発明した仕組みは、インチキの気恥ずかしい尻尾を残しているから批判的立ち位置になれるが、発明の外部者が後から引き継いだ者は、逆に批判しない事でインチキを合理化せんとする。これが信じすぎという事の本質です。リーマンショックを経験しても尚、格付けなんていう国外の発明を真に受けて信じている政治家はカスだ。
『 私は、尊敬する政治家の一人にロバート・ケネディがおります。
「理想だけを追いかけていたんでは政策遂行できない。現実だけを追いかけていたんでは政治に涙がない、ロマンがない。必要なことは、幻想なき理想主義。」
この言葉が、今大変胸にしみているところでございます。』野田佳彦首相 (官邸HP 野田首相語録より)
これがケネディーによる新たな幻想の発明だということに気づいていない野田佳彦首相は(支配される側にある)普通の人です。
幻想を愛したいのが普通の人々で、統治者はそれを与える人。ロバート・ケネディーはそれをよく知っていた。「幻想なき理想主義」という新たな幻想を発明して国民を動員し政敵に痛烈な敗北を、国民に大いなる統治結果を与えるのがケネディーの成功したスタンス。これこそが帝王学まさにマキャベリの考える統治者です。残念ながらロバート・ケネディは道半ばだった。
国家経営をマネジメントと捉えるか、政争と捉えるかこれにより政治のスタンスが決まる。
こういうことぐらい松下政経塾で勉強してきてほしいものです。社長になるのか課長になるのかそのくらいの違いです。ドジョウから成り上がった気持ちでいても、国民の声が聞けず、結局官僚の味付けによるドジョウ鍋が煮えるのではお話ならない。私の野田佳彦評価は”志”があっても課長補佐程度。世に言う”政策通”レベルの政治家ということ。”政策通”レベルの政治家というのは、官僚(米国の宦官)のフォロワーであって、マネジメントの立場にさえ立ちえない政治家です。外国人の献金を受けて馬脚を露わにしたのは韓国の宦官の方でしたが、どっちもついているべきものが無いことに変わりがない。
政治は第一に政争、第二に政争、次にマネジメントです。政争を悪と捉える通俗マスコミの政局批判はあたらない。今の日本において政局政争のどこが悪であるかというと。本当の権力(官僚人事権、立法自主権、通貨発行権)を持っていない者どうしの名目の戦いが幻想をふりまく点です。つまり今の日本政体において政局は権力を争う政争ではない。むしろこの安定状態の方が悪です。
*****幻想を導くのはイメージとスクリーン*******
話をもとに戻すと、自分たちで発明した政治の仕組みは、インチキの気恥ずかしい尻尾を残っていると自覚している。
まして米国の政治ならケネディーのホーチミン・ルートへの越境爆撃を引用するまでもなく、外面をつくろうインチキはどこのポケットにも隠されていた。JFKもロバート・ケネディも繕いがほころびる前に死んだから英傑として讃えられているに過ぎない。
賢人は人間が幻想の力に抗えないことを知っている。
故に幻想を用いて統治を正当化し矛盾を合理化するのが賢者の政治です。
幻想の力による合理化は論理欠陥が避けられない。飛躍がある。
誰もが記憶するところのスローガンを例に挙げれば、該、「郵政民営化なくして構造改革なし」というフレーズにはその対偶命題<全ての構造改革が郵政民営化の道を通る>ということと同値だが、そんなことはない。もしそうであったとしたら小泉の言う構造改革というのは本当に小さなこと(郵政利権構造)を言っていることになる。・・小泉の頭の中では郵政利権構造と特定郵便局を選挙地盤とする旧田中派しか眼中になかったので対偶命題は成り立つ。・・
しかし事実郵政を民営化しても肝心の公共事業費の垂れ流し構造に歯止めはかからなかった。反対にグリーンピアの大安売りによる差也利得という告発のない犯罪が実現した。
こうした論理の穴はメディアが覆い隠す。それは論理によらず、イメージとスクリーン占有率でこれを覆い隠す。放送メディアは放送法も盾にできないほど情けない。常にときの主人公と発言の歩調を合わせた同罪者ゆえに存続できる哀れな存在です。
それでも時の推移とともに隠す仕組みがなくなれば露見する。それが歴史の評価というものです。退屈している国民の目はイメージとスクリーンで騙せても歴史の目は騙せない。
****『岸信介証言録』****
「政治というものはいかに動機がよくとも結果が悪ければダメだと思うんだ。場合によっては動機が悪くとも結果が良ければいいんだと思う。これが政治の本質じゃないかと思うんです。」
*****************
だから本来の最高の政治は結果と効用を以って証明する必要がある、国民の期待と幻想が歴史的真実であったと将来の国民にむけて。それは奇跡が本当に起きたと思わせるほどの成果でなければならない。
極論を言えば、万人が悪人と信ずべき政敵は死体にする。それが善政です。江藤淳の言い回しを借りれば、政治家に徳を求めた孔子は実践で失敗したから論語を書いて後世の人々に尊敬されている。(あるいは政敵の実質上の政治的死体をさらす舞台があればいい(田中角栄や芦田均のように))。実証されなかった善政が孔子の政治です。現実に起こった政治は徳とは無縁の政争でした。これが古来から一貫して政争による政治が最高の政治という所以です。サダムフセインもビンラーデンも死体になった。小泉のような嘘はすぐにバレてしまうが、政争を徹底することで幻想の真実性は強化される。政治は時にはかつての政治上の友人を死体にしてまでも大義を示す。そう思えないのなら次の質問の答えを考えてみるのがよろしい。
****
民主主義は平和(democratic peace)をもたらしますか?米国は時々自国民主主義の優位性を<実証>してみせる。米国との付き合いはそういう覚悟が必要です。これはマイケル・ドイル(1983年発表の論文 "Kant, Liberal Legacies, and Foreign Affairs" は、「民主主義国同士は互いに戦争をしない」とする民主的平和論(democratic peace)の嚆矢となった。)とは全く反対の見解です。民主主義の圧力によって情報が公開されているからといって戦争はなくなっていません。情報の非対称性(いわゆる「囚人のジレンマ」)だけが戦争の動機ではありません。
個人的小競り合いと国家の闘いを混同してはいけません。20世紀は核兵器の登場が戦争と平和を変えました。 多くの日本人が一番知っておくべき事実を知らないとはどういうことでしょう。日本の無条件降伏は核兵器の使用とセットだったことは偶然ではありません。核兵器が戦争と平和のルールを変えたのです。核を持つ側の大義(裏は持たない側の壊滅あるいは消滅)の前には、あらゆる相手側の生存情報(絶対譲れない条件)が非常に小さなものになる。そういう時代です。マイケル・ドイル型の民主的平和論なんて通用しません。
だから政治家は大義の前(あるいは消滅の危機に面して)に立って国民に対し非情でなければ政治ではなく、正義と力の名目によりかかり、相手に対して非情でなければ、情報の相対化に失敗し、戦争を主導した政治家はただの犯罪者になってしまいます。
政治の勝利の要諦は常に大義にある。
「戦時には、真実は極めて重要で、うそに守られていなければならない」ウィンストン・チャーチル
民主主義や民主化が代議制を通じて紛争を解決し、戦争を抑止するというのも幻想です。世界を代表する民主主義国家であるアメリカはどうだろう。アメリカは第二次大戦前後どれだけ戦争をしたか?←信じられないのならこのリンク先の動画を見れば良い。アメリカの民主党が平和的と思っていませんか。
政治の発明で最も有効なメカニズムは永遠に続くマイナスを創出することであり、それを埋めることが国民課題の最優先と思い込ませる幻想の効用である。民族の汚辱を取り除くスローガンもこの範疇に当たる。
例えば、米国のテロとの戦い、日本のいわゆる”国の借金”というマイナス概念もその類のものだ。”国の借金”はよく使われる言葉だけれども(正確には政府の借金)、それでは日本に対する債権国はどこでしょう。どこにもありません。それを上回る外国債権を持っているからです。国は借金をしてなんかいない。政府の借金や地方自治体の債務があるだけです。政府=国ではない。借入のない会社がないのと同じです。どのような会社も担保資産の範囲で銀行から借り入れます。それは会社の借金なのですが、いわゆる”国の借金”論はこれを社員と家族の借金言い換えているようなものです。国民の生存本能に訴えるほどこのメカニズムは効果を発揮します。テロや民族浄化、食糧危機や疫病このような永続するマイナスの道具立てが有効です。
野田佳彦首相に政治の発明をもとめるのも気の毒だが、近代の日本政治は輸入モノばかりで真に政治を発明した歴史がない。政治を発明するとは幻想を以て国民を動員することであり、幻想を破って国民の熱意を統治の風とすることでもある。
田中角栄の政治の発明の瞬間はこれである。田中角栄は官僚制秩序と政治を取り払ったかのようにメッセージを送って、エネルギーを引き出した。
「私が田中角栄だ。小学校高等科卒業である。われと思わん者は、誰でも遠慮なく大臣室に来てほしい。何でも言ってくれ。上司の許可を、いちいち得る必要はない。できることはやる、できないことはやらない。しかし、すべての責任はこの田中角栄が背負う。以上。」
はたして支配される側の野田や下半身の手薄な橋下にそれができるのだろうか?政権交代直後の民主党のように官僚をスケープゴートにして攻撃してもマイナスの永続はできない。幻想を破壊するエネルギーを持っているとは思えない。19世紀の終わりから20世紀の前半冷戦が始まるまでの間ロシアは永続する脅威だった。ロシアの脅威という道具立ては、日本の運命があらゆる面でロシアに翻弄されたと同時に政治に利用された。今橋下氏が率いる中身が不明確であやしげな維新勢力がそれでもなぜ既成政党以上に伸びているかというと、原発の安全神話、政権交代の夢想、マスメディアの中立性など複数の幻想が次々と破れたからです。ただこれらは風に過ぎません。受け止めるべき新たな旗印が必要です。しかも幻想が道州制であるとか分権であるとか小難しいことでは動員できません。もっと国民の生存本能に訴える敵の暗躍、すなわち日本国の国力を削いでいる根本的な寄生者を炙りださなければなりますまい。
日本人の歴史の中で唯一政治を発明したと言えるのは頼朝から北条にかけての幕府制度による権力簒奪の仕組みだろう。何しろ朝廷の祭事という日本の絶対的行事に関わることをやめて、関東で独自の政治勢力をつくる(権威と政治を分離する)などという朝廷に弓を引く行為に祟りなど起こらないと証明したのだからすごい。一方で北条自身が作者だから幕府という仕組み(幕府と呼ばれる様になったのは江戸時代からだが、このさい幕府でも鎌倉殿でも呼称は問題ではない)は700年近く長持ちした。後世批判的に自ら何度も手直ししたからだ。一度も手直しをしない今の憲法論議よりも数段ましな政治をしていた。
頼朝は以下の意味で天才であったと思う。
天才とは、その人だけに見える新事実を、見ることのできる人ではない。誰もが見ていながらも重要性に気がつかなかった旧事実に、気づく人のことである。(「ローマ人の物語<2>ハンニバル戦記」)塩野七生
野田佳彦首相はこのように言った
『「 私は、尊敬する政治家の一人にロバート・ケネディがおります。
「理想だけを追いかけていたんでは政策遂行できない。現実だけを追いかけていたんでは政治に涙がない、ロマンがない。必要なことは、幻想なき理想主義。」
この言葉が、今大変胸にしみているところでございます。 』
これが舶来品を信じすぎというものの典型です。
自分たちで発明した仕組みは、インチキの気恥ずかしい尻尾を残しているから批判的立ち位置になれるが、発明の外部者が後から引き継いだ者は、逆に批判しない事でインチキを合理化せんとする。これが信じすぎという事の本質です。リーマンショックを経験しても尚、格付けなんていう国外の発明を真に受けて信じている政治家はカスだ。
『 私は、尊敬する政治家の一人にロバート・ケネディがおります。
「理想だけを追いかけていたんでは政策遂行できない。現実だけを追いかけていたんでは政治に涙がない、ロマンがない。必要なことは、幻想なき理想主義。」
この言葉が、今大変胸にしみているところでございます。』野田佳彦首相 (官邸HP 野田首相語録より)
これがケネディーによる新たな幻想の発明だということに気づいていない野田佳彦首相は(支配される側にある)普通の人です。
幻想を愛したいのが普通の人々で、統治者はそれを与える人。ロバート・ケネディーはそれをよく知っていた。「幻想なき理想主義」という新たな幻想を発明して国民を動員し政敵に痛烈な敗北を、国民に大いなる統治結果を与えるのがケネディーの成功したスタンス。これこそが帝王学まさにマキャベリの考える統治者です。残念ながらロバート・ケネディは道半ばだった。
国家経営をマネジメントと捉えるか、政争と捉えるかこれにより政治のスタンスが決まる。
こういうことぐらい松下政経塾で勉強してきてほしいものです。社長になるのか課長になるのかそのくらいの違いです。ドジョウから成り上がった気持ちでいても、国民の声が聞けず、結局官僚の味付けによるドジョウ鍋が煮えるのではお話ならない。私の野田佳彦評価は”志”があっても課長補佐程度。世に言う”政策通”レベルの政治家ということ。”政策通”レベルの政治家というのは、官僚(米国の宦官)のフォロワーであって、マネジメントの立場にさえ立ちえない政治家です。外国人の献金を受けて馬脚を露わにしたのは韓国の宦官の方でしたが、どっちもついているべきものが無いことに変わりがない。
政治は第一に政争、第二に政争、次にマネジメントです。政争を悪と捉える通俗マスコミの政局批判はあたらない。今の日本において政局政争のどこが悪であるかというと。本当の権力(官僚人事権、立法自主権、通貨発行権)を持っていない者どうしの名目の戦いが幻想をふりまく点です。つまり今の日本政体において政局は権力を争う政争ではない。むしろこの安定状態の方が悪です。
高橋洋一〈債務残高が大きくなると財政状況が厳しいというなら、金融機関の預金残高の大きなところも財政状況が厳しいと言わなければならない。ベスト5をいえば、ゆうちょ銀行195.0兆円、三菱UFJ銀行192.3兆円、三井住友銀行149.9兆円、みずほ銀行145.2兆円、JAバンク108.6兆円だが、財政状況が厳しいなんて話はまったくない。
それもそのはず、債務が大きいことは財政状況に直結せず、バランスシートで資産との大小でみなければいけないからだ〉と簡単に書いたが、あまり理解されなかったようだ。それほど、財務省やマスコミのプロパガンダが強いということだろう。これはまさに財務省の立場を代弁しているようなものだ。
逆に、財務省の発表文について、間違った理解をもとに批判する人もいた。いずれにしても、双方ともに正しく理解できていないのは残念だ。
高橋洋一
*****幻想を導くのはイメージとスクリーン*******
話をもとに戻すと、自分たちで発明した政治の仕組みは、インチキの気恥ずかしい尻尾を残っていると自覚している。
まして米国の政治ならケネディーのホーチミン・ルートへの越境爆撃を引用するまでもなく、外面をつくろうインチキはどこのポケットにも隠されていた。JFKもロバート・ケネディも繕いがほころびる前に死んだから英傑として讃えられているに過ぎない。
賢人は人間が幻想の力に抗えないことを知っている。
故に幻想を用いて統治を正当化し矛盾を合理化するのが賢者の政治です。
幻想の力による合理化は論理欠陥が避けられない。飛躍がある。
誰もが記憶するところのスローガンを例に挙げれば、該、「郵政民営化なくして構造改革なし」というフレーズにはその対偶命題<全ての構造改革が郵政民営化の道を通る>ということと同値だが、そんなことはない。もしそうであったとしたら小泉の言う構造改革というのは本当に小さなこと(郵政利権構造)を言っていることになる。・・小泉の頭の中では郵政利権構造と特定郵便局を選挙地盤とする旧田中派しか眼中になかったので対偶命題は成り立つ。・・
しかし事実郵政を民営化しても肝心の公共事業費の垂れ流し構造に歯止めはかからなかった。反対にグリーンピアの大安売りによる差也利得という告発のない犯罪が実現した。
こうした論理の穴はメディアが覆い隠す。それは論理によらず、イメージとスクリーン占有率でこれを覆い隠す。放送メディアは放送法も盾にできないほど情けない。常にときの主人公と発言の歩調を合わせた同罪者ゆえに存続できる哀れな存在です。
それでも時の推移とともに隠す仕組みがなくなれば露見する。それが歴史の評価というものです。退屈している国民の目はイメージとスクリーンで騙せても歴史の目は騙せない。
****『岸信介証言録』****
「政治というものはいかに動機がよくとも結果が悪ければダメだと思うんだ。場合によっては動機が悪くとも結果が良ければいいんだと思う。これが政治の本質じゃないかと思うんです。」
*****************
だから本来の最高の政治は結果と効用を以って証明する必要がある、国民の期待と幻想が歴史的真実であったと将来の国民にむけて。それは奇跡が本当に起きたと思わせるほどの成果でなければならない。
極論を言えば、万人が悪人と信ずべき政敵は死体にする。それが善政です。江藤淳の言い回しを借りれば、政治家に徳を求めた孔子は実践で失敗したから論語を書いて後世の人々に尊敬されている。(あるいは政敵の実質上の政治的死体をさらす舞台があればいい(田中角栄や芦田均のように))。実証されなかった善政が孔子の政治です。現実に起こった政治は徳とは無縁の政争でした。これが古来から一貫して政争による政治が最高の政治という所以です。サダムフセインもビンラーデンも死体になった。小泉のような嘘はすぐにバレてしまうが、政争を徹底することで幻想の真実性は強化される。政治は時にはかつての政治上の友人を死体にしてまでも大義を示す。そう思えないのなら次の質問の答えを考えてみるのがよろしい。
****
民主主義は平和(democratic peace)をもたらしますか?米国は時々自国民主主義の優位性を<実証>してみせる。米国との付き合いはそういう覚悟が必要です。これはマイケル・ドイル(1983年発表の論文 "Kant, Liberal Legacies, and Foreign Affairs" は、「民主主義国同士は互いに戦争をしない」とする民主的平和論(democratic peace)の嚆矢となった。)とは全く反対の見解です。民主主義の圧力によって情報が公開されているからといって戦争はなくなっていません。情報の非対称性(いわゆる「囚人のジレンマ」)だけが戦争の動機ではありません。
個人的小競り合いと国家の闘いを混同してはいけません。20世紀は核兵器の登場が戦争と平和を変えました。 多くの日本人が一番知っておくべき事実を知らないとはどういうことでしょう。日本の無条件降伏は核兵器の使用とセットだったことは偶然ではありません。核兵器が戦争と平和のルールを変えたのです。核を持つ側の大義(裏は持たない側の壊滅あるいは消滅)の前には、あらゆる相手側の生存情報(絶対譲れない条件)が非常に小さなものになる。そういう時代です。マイケル・ドイル型の民主的平和論なんて通用しません。
だから政治家は大義の前(あるいは消滅の危機に面して)に立って国民に対し非情でなければ政治ではなく、正義と力の名目によりかかり、相手に対して非情でなければ、情報の相対化に失敗し、戦争を主導した政治家はただの犯罪者になってしまいます。
政治の勝利の要諦は常に大義にある。
「戦時には、真実は極めて重要で、うそに守られていなければならない」ウィンストン・チャーチル
民主主義や民主化が代議制を通じて紛争を解決し、戦争を抑止するというのも幻想です。世界を代表する民主主義国家であるアメリカはどうだろう。アメリカは第二次大戦前後どれだけ戦争をしたか?←信じられないのならこのリンク先の動画を見れば良い。アメリカの民主党が平和的と思っていませんか。
政治の発明で最も有効なメカニズムは永遠に続くマイナスを創出することであり、それを埋めることが国民課題の最優先と思い込ませる幻想の効用である。民族の汚辱を取り除くスローガンもこの範疇に当たる。
例えば、米国のテロとの戦い、日本のいわゆる”国の借金”というマイナス概念もその類のものだ。”国の借金”はよく使われる言葉だけれども(正確には政府の借金)、それでは日本に対する債権国はどこでしょう。どこにもありません。それを上回る外国債権を持っているからです。国は借金をしてなんかいない。政府の借金や地方自治体の債務があるだけです。政府=国ではない。借入のない会社がないのと同じです。どのような会社も担保資産の範囲で銀行から借り入れます。それは会社の借金なのですが、いわゆる”国の借金”論はこれを社員と家族の借金言い換えているようなものです。国民の生存本能に訴えるほどこのメカニズムは効果を発揮します。テロや民族浄化、食糧危機や疫病このような永続するマイナスの道具立てが有効です。
野田佳彦首相に政治の発明をもとめるのも気の毒だが、近代の日本政治は輸入モノばかりで真に政治を発明した歴史がない。政治を発明するとは幻想を以て国民を動員することであり、幻想を破って国民の熱意を統治の風とすることでもある。
田中角栄の政治の発明の瞬間はこれである。田中角栄は官僚制秩序と政治を取り払ったかのようにメッセージを送って、エネルギーを引き出した。
「私が田中角栄だ。小学校高等科卒業である。われと思わん者は、誰でも遠慮なく大臣室に来てほしい。何でも言ってくれ。上司の許可を、いちいち得る必要はない。できることはやる、できないことはやらない。しかし、すべての責任はこの田中角栄が背負う。以上。」
はたして支配される側の野田や下半身の手薄な橋下にそれができるのだろうか?政権交代直後の民主党のように官僚をスケープゴートにして攻撃してもマイナスの永続はできない。幻想を破壊するエネルギーを持っているとは思えない。19世紀の終わりから20世紀の前半冷戦が始まるまでの間ロシアは永続する脅威だった。ロシアの脅威という道具立ては、日本の運命があらゆる面でロシアに翻弄されたと同時に政治に利用された。今橋下氏が率いる中身が不明確であやしげな維新勢力がそれでもなぜ既成政党以上に伸びているかというと、原発の安全神話、政権交代の夢想、マスメディアの中立性など複数の幻想が次々と破れたからです。ただこれらは風に過ぎません。受け止めるべき新たな旗印が必要です。しかも幻想が道州制であるとか分権であるとか小難しいことでは動員できません。もっと国民の生存本能に訴える敵の暗躍、すなわち日本国の国力を削いでいる根本的な寄生者を炙りださなければなりますまい。
日本人の歴史の中で唯一政治を発明したと言えるのは頼朝から北条にかけての幕府制度による権力簒奪の仕組みだろう。何しろ朝廷の祭事という日本の絶対的行事に関わることをやめて、関東で独自の政治勢力をつくる(権威と政治を分離する)などという朝廷に弓を引く行為に祟りなど起こらないと証明したのだからすごい。一方で北条自身が作者だから幕府という仕組み(幕府と呼ばれる様になったのは江戸時代からだが、このさい幕府でも鎌倉殿でも呼称は問題ではない)は700年近く長持ちした。後世批判的に自ら何度も手直ししたからだ。一度も手直しをしない今の憲法論議よりも数段ましな政治をしていた。
頼朝は以下の意味で天才であったと思う。
天才とは、その人だけに見える新事実を、見ることのできる人ではない。誰もが見ていながらも重要性に気がつかなかった旧事実に、気づく人のことである。(「ローマ人の物語<2>ハンニバル戦記」)塩野七生
格下げを受け、27日のクレジット・デフォルト・スワップ(CDS)市場では、ドル建て日本ソブリンの5年物は一時82.5ベーシスポイントまで上昇し、中国国債の保証コストを7.5ベーシスポイント上回った。
現時点で格付けは変更しないが、政府が取り組む「社会保障と税の一体改革」の内容次第では格下げもあり得るとの見方を示した。
バーン氏は、日本国債の不安要因として、経済の成長率の低下やデフレの長期化、税収の回復の遅れを指摘した。
米格付け会社のスタンダード・アンド・プアーズは1月、日本国債の格付けを21段階中、上から3番目の「ダブルA」から、4番目の「ダブルAマイナス」に引き下げた。これに対し、ムーディーズは同じく21段階中3番目の「Aa2」を維持している。
(2011年2月9日21時27分 読売新聞)