田中清玄は戦後フィクサーとして名高いが、元は共産主義者でソ連人脈を戦後まで持っていて、独自の情報源から朝鮮戦争の発生を予想していた。当時の米軍は笑い飛ばしていた。まもなく東声会(町井久之ことチョン・ゴニョンの一家)から銃弾を浴びて逆に国粋主義者として名を上げた。しかし本質は全体主義者のままだった。
そして、またまた見つけましたよ戦後史の陰の人物天川勇氏(福田赳夫元首相の智恵袋)石原慎太郎の師匠。戦前戦後を通じて彼は明確に米国の手先だったんですね。天川氏は半導体研究者・岩瀬新午を国の研究から淡路島の同郷の経営者で懇意だった井植歳男の民間企業に引き抜いた。次世代軍事技術を征すると考えられていた合成半導体を独力で商品化直前までやり遂げた岩瀬新午を日本政府から引き離すということの意味と意義は米国にはわかっていただろう。
岩瀬は1950年10月に日本で最初にゲルマニウム結晶を用いたトランジスタ増幅現象を確認している。電気通信省電気通信研究所(通研)で「トランジスタの研究プロジェクト」が2月に発足してから8ヶ月後、ベル研究所からトランジスタの発明が公表されてから1年8ヶ月後、にも早くから引き抜くことを注目していた。これは外国の指示でしょう。さもなくば暗殺されたかもしれない。
人脈
天川勇の娘さんは安倍晋三の通訳をやっている。天川と米国の許可のもとに福田も石原も清和会も政治をやれていた)唯一の例外田中角榮以外は。
田中曰く『田中さんは確かに天才的な人でしたね。今日でも田中さんに対してはいい人だし、そもそも俺はあのロッキード事件というのは、アメリカの差し金と信じているから、何とか名誉回復もしてあげたいと思っています。ただ惜しむらくは田中さんの周りには、知性のある人は一人もいなかった。早大雄弁会の竹下や、金丸程度が関の山』
CIA組織が日本で生まれたということがよくわかる。1949年『あれは一九四九年(昭和二十四年)十二月のクリスマスパーティーに、GHQアーモンド参謀長に招待されて、練馬の米軍キャンプに行った時のことです。このパーティーには当選したばかりの中曽根君早川崇君などの政治家、それに天川という戦時中は海軍の嘱託をしていた男も招かれていましたよ。僕は朝日新聞の進藤次郎を連れて行ったんですよ。』このパーティーで中国がソ連の手引きで朝鮮半島に侵入することを田中は予言していたが、この警告を馬鹿にしてだれも相手にはしなかった。皮肉にもアーモンド参謀長*は国連軍参謀長を兼務し多忙となる。翌1950年6月、38度線を越えて北朝鮮が攻めてきたことは歴史の示す通り。
翌1950年6月、38度線を越えて北朝鮮が攻めてきたことは歴史の示す通り。
*アーモンド参謀長(エドワード・マロリー・アーモンド(Edward Mallory "Ned" Almond、 1892年12月12日-1979年6月11日)は1950年6月、朝鮮戦争が勃発すると7月24日に国連軍参謀長を兼任。仁川上陸作戦に際して第10軍団長。1951年、中将。1953年1月、退役。田中清玄の情報源はアンドレイ・アレクサンドロヴィチ・ジダーノフ系列のソ連幹部:ソビエト連邦最高会議議長(1946年3月12日 - 1947年2月25日)、ジダーノフはスターリンの後継者の一人、事実上ナンバーツーとみなされていたが、1948年8月31日、モスクワで急死した。その死には、スターリンが関与しているとも言われるが定かではない。ジダーノフは、抑圧的な文化政策の実行者としての一面で、共産党とソ連の民主化に関心を示していたとも言われる。死の直後にレニングラード事件が「発覚」し、レニングラードに根拠をおく党幹部は悉く粛清された。
田中清玄の連絡の日本トップはカール・ヤンセン1だった。
1950年、ゴスプラン議長ニコライ・ヴォズネセンスキー、ロシア共和国閣僚会議議長ミハイル・ロディオノフ、党書記アレクセイ・クズネツォフ、ピョートル・ポプコフ市長、ヤーコフ・カプーシチン、ピョートル・ラズーチンが死刑判決を受けた。「共犯者」の残りは、それぞれ異なる刑期を言い渡された。
同時に、ソ連当局はレニングラードの党及び政府の指導部を刷新した。約2千人
が指導部を追われ、2百人以上がその親類縁者共に弾圧された。告発された全員が、後に(多くはその死後に)名誉を回復された。
田中清玄とソ連を結ぶ工作員も1948年秋の時点までに暗殺を知らされていなかった。武装時代はOMSオムスとの接触があったようだ。オムスはヴェノナ文書にもでてくるコミンテルン内の秘密組織で資金と武器を供給する国際窓口だ。たぶんこのナージャと名乗る女性もオムスの一員で帰国後粛清(シベリア送りか銃殺)されたのでしょう。田中清玄は池田成彬を通じて吉田茂に警告した。三鷹事件、松川事件の本質も田中清玄のいうとおり、ソ連の後方かく乱工作とみてよいでしょう。
池田成彬 は吉田の大磯屋敷と敷地が隣だった。国際的にはオットー大公【オットー・フォン・ハプスブルク(ドイツ語: Otto von Habsburg, 1912年11月20日 - 2011年7月4日)ドイツ、オーストリア、ハンガリー、クロアチアの市民権を持ち、欧州議会議員や国際汎ヨーロッパ連合国際会長を務めるなど、汎ヨーロッパ主義的に活動した政治家でもある。戦時中には「ドナウ連邦」樹立を、戦後は欧州統合を提唱した。汎ヨーロッパ・ピクニックの中心人物】の友人(最初がどういう出会いだったのかは自伝中では隠されている、たぶんコミンテルンからの縁だろう)というのが効いている。フランスの侠客レジスタンス、ジャック・ボメールとの出会いも暗殺されたイタリアの共産主義者教授との出会いも、ハイエクと出会う縁もオットー大公がアシストしている。しかしモンペルラン・ソサイエティ*のユダヤ人セクト化にも反発し退会している(モンペルラン・ソサイエティはオットー公退会の時点で崩壊 その後WEFと名前を変えて蘇っている)。
*木内信胤の「世界経済調査会」は、事実上の日本モンペルラン協会として機能した。1970年代にハイエクが来日した際、世界経済調査会の講演で「三大消極価値」(Three Great Negative Values)という思想を発表している[2]。
なんと田中は昭和天皇にも直言していた。一回きりの面会だが事実上混乱期の天皇の顧問であり、天皇裕仁は提言のとおりに実行した。右翼として児玉誉士夫と岸信介を憎んでいた。田岡との申し合わせのおかげで日本に麻薬マフィア、武装マフィアができなかった。小菅で知り合った水戸出身の「右翼」、橘孝三郎を尊敬している田中の表明は実に人を見る筋がいいので好感が持てる。橘考三郎の戦後の苦しい時の書籍刊行にも協力している。人を見る筋が良いということが彼の人脈を世界的なものに育て上げる。
中国との縁は宇都宮徳馬がつくってくれた《宇都宮は事業的にも思想的にも天才で、ずいぶん厄介になったねえ。親父は宇都宮太郎という陸軍大将で、親父の副官がしょっちゅう来ているから情報が入るんだ。日中友好協会なんかは彼のお陰ですよ》。従軍慰安婦のことを信じ切っていたのは友人が朝日新聞の進藤だったからだろうな。
現在の日中友好議員連盟
会長:二階俊博 自民党
副会長:岡田克也 立憲、海江田万里 立憲、北側一雄 公明党、志位和夫 共産党、古川元久 国民、福島みずほ 社民党
幹事長:甘利明 自民党、近藤昭一 立憲
事務局長:小渕優子 自民党
顧問:山口那津男 公明党
幹事:加藤鮎子 自民党
田中清玄は戦争に行ってないし、陸軍軍人たちの出征地の現実を知らない。戦後、鄧小平にコロリといったのも共産主義の全体主義本質を成功と称賛していたから。こういう自由を愛するロイヤリスト(天皇制支持者かつ国家改造支持全体主義者)が敵に回ると危険な人物なのです。現代で言うならば篠原常一郎のような属性の人物です。