公開メモ DXM 1977 ヒストリエ

切り取りダイジェストは再掲。新記事はたまに再開。裏表紙書きは過去記事の余白リサイクル。

顔で笑って心で泣いて。

2021-06-10 06:59:00 | 日本人
顔で笑って心で泣いて。

百田尚樹配信より

「自らが起こした事故に真摯に向き合う姿勢を見せない被告の、のらりくらりとした発言は聞くに堪えないものです。わたしならふざけた答えを繰り返す被告を殴りつけていたことでしょう。
それに比べて今回の遺族たちのなんと立派なことか。彼らは真実を知るため、感情を表に出すことなく極めて冷静に努めていました。それだけにはらわたが煮えくり返っているであろうその胸中を想うといたたまれません。」


そういう実経験は無くても、日本人ならこの遺族の表裏に共感できるだろう。しかし他の文化圏では裏切りか欺瞞と見做される。ところが日本人ほど真摯な人材の多い国はないでしょう。何か欺瞞の感情と思われることは全く心外に思ったことでしょう。真摯さは教育できるものではない。真摯さを必要とされる社会環境、風土、地域、家庭に生まれるしか無い。橋🌉とか自分を棚にあげられる日本人もいないわけではないが。

ではどうして『顔で笑って心で泣いて。』が日本人の中では美徳又はいい人の印なのだろうか?《もののあはれ》を知らなければ現代日本人も不実二心と誤解するかもしれない価値観(日本人には本当の仲間内の前でしか泣かない価値観)がある。

ギリシャ人だったらどうだろうか実証的には語れないが、ギリシャには神職というものが無かった。世界に共通する傾向としては神官や祭司が安定した階層を創る社会は天変地異や災害の多い風土である。インドガンジス川沿いの文明はこの世に二度と戻らない解脱の価値観で出来ている。出家や菩薩信仰などへと分化して現代階層化インドが出来上がっている。日本はそこまでではないが、不吉なことは口にしない。悲惨なことも泣きたいが泣かない。なぜなら先祖代々超絶な天災と困難を経験し、神の恵みで生きているという暗黙の了解があるからだ。

自分が泣けば社会が傷つき祖先の築いた礎が穢れるだから笑っている。いつまでも抵抗できない絶対の自然に逆らっていられないのだ。

日本人は長い縄文の安定の中で幾度も自然に痛めつけられている。一時は姶良カルデラ姶良Tn火山灰はおよそ三万年前)及びその周辺約7300年前の大規模カルデラ噴火は過去1万年の内では世界最大規模で、火砕流九州南部にも到達し、九州南部の縄文人を絶滅させた鬼界カルデラ)の大爆発で九州全域が絶滅している。一時的には6000人足らずの人口になったという。日本人はそこから自然が蘇る奇蹟を目にしている心の記憶を持つ。これが《もののあはれ》の無意識的源流だろうと思う。これが神の道、後に古代ユダヤ教の影響を受けた縄文の心が仏教以前の日本人の心の記憶だったのではないかと思う。その証拠にいわゆる『お盆』の祖先霊祀りは仏教ではなく仏教伝来以前からある。先祖の存在が今の私たちのもとであるという明白な事実は誰にも否定できない。

故にいつまでもちっぽけな今の自分がここで悲嘆して泣く意味はない。早く再生と成長の世代に身を任せる選択が有効な社会が日本なのだ。インド系解脱思想とは対極の現世肯定思想である。

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