パーペンはヒトラーを甘く見ていた人物として歴史に名を残し、初期政権のトップ(ヒトラーとは連立)であったにも関わらず処刑もされずに1960年台の末まで生きた。あまり知られていない事実だが、この頃のヒトラーの主張は修正資本主義であり今日本の岸田内閣が主張する新しい資本主義にそっくりである。
フランツ・ヨーゼフ・ヘルマン・ミヒャエル・マリア・フォン・パーペン(Franz Joseph Hermann Michael Maria von Papen 音声 , Erbsälzer zu Werl und Neuwerk, 1879年10月29日 - 1969年5月2日)は、ドイツの政治家、外交官、軍人、貴族(男爵)。ドイツ国首相を務めた後、ヒトラー内閣の副首相を一年間務めた。陸軍の最終階級は中佐。
1933年1月30日11時15分頃にヒトラー内閣が成立した[73]。パーペンは副首相兼プロイセン州首相に就任した[73]。ナチ党からの入閣は首相ヒトラー、内相ヴィルヘルム・フリック、無任所相・プロイセン州内相ヘルマン・ゲーリングの三人のみであり、その他の閣僚はヒンデンブルク大統領自らが選んだ国防相ヴェルナー・フォン・ブロンベルクを除き、パーペンが選んだ[77]。パーペンは「われわれは彼を雇ったのさ」「わたしはヒンデンブルクに信頼されている。二ヶ月もしないうちにヒトラーは隅っこのほうに追いやられてきいきい泣いているだろう」と語り[78]、自らのヒンデンブルクへの影響力でもってヒトラーを操り人形できるという幻想に浸っていた[79]。
(パーペン回想より)
私が政権の座に就いた時、ナチ党は230議席を占めていた。従って彼らがいなければ私は国会で多数派を形成することができなかった。首相の立法行為を有効にするためには国会の過半数を獲得しなければならないからだ。問題はいかにナチ党と折り合っていくかだった。
ヒトラーは常に社会問題はマルキシズムやボルシェヴィズムによっては解決できないが、ある程度の社会主義を含んだ資本主義によって解決できる点を強調した。あらゆる経済活動によって得られる利益は社会が共有すべき物であって個人が独占すべきではないと言うのだ。私にはそれも一理あるように思えた。ナチ党のスローガンの一つは『全ての利益を何より先に社会に還元しよう』だった。ナチ党が援用するタイプの社会主義と共産主義の差は、ナチ党は共産主義国と違って私人の所有権を抑制しない点にあった。それは妥当な主義に思えた。ナチ党による政権樹立は私の率いる保守派には不愉快な事態ではなかった。私はカトリックなので教皇レオ13世が有名な回勅の中で同様の主張をしているのを思い出したのだ。
初めて話した頃のヒトラーは宗教について私と同じ意見であり、ドイツに宗教抜きで統治できる州はひとつもないと明言していた。彼は『我が闘争』の中でも人民の宗教生活を破壊する者こそは愚者であると述べている。さらにヒトラーは政治改革は宗教改革であってはならないとも言った。他の多くの事柄のようにヒトラーが前言を翻したのは私の責任ではない。ヒトラーは権力の階段を上る過程でころころと考えを変えていった。だが政権掌握当初はそうではなかった。現に私は宗教については宥和的な姿勢で臨むというのが彼の心からの願いなのだと思っていた。1933年3月の国会の演説の中で彼はキリスト教の根本原理を尊重しているし、それを擁護するためには何でもすると言った。演説の中でこの点に触れるようヒトラーに頼んだのは私だった。
ヒトラーの言うユダヤ人問題の解決は常識に沿った穏当な手段でなされる物と思っていた。当初はあれほど過激な手段でユダヤ人問題を解決しようとしていると思わなかったのだ。ヒトラーがユダヤ人の影響力を排除する最初の法律を作った時、私はそれに制限を加え、1914年からドイツに在住しているユダヤ人はすべて国内に留まれるようにした。1918年の敗戦後、ドイツには東方からユダヤ人が大量に流入した。この過剰流入はドイツでは常軌を逸していたが、それが起こったのは1918年の革命後の一度きりだった。流入したユダヤ人は相当の数に上った。我々はこの状況をなんとかすべきだと考えたのだ。