田中一村のほとんどはじめての生涯活躍の集大成回顧展。
2024/10/19の午前中は上野で田中一村展を見て昼は中国人だらけの飲茶店、午後は浅草で閉店したアリゾナキッチンあたりを散策。
着物👘を着ている人はほとんどが外国人。
18:00から前に勤めていた会社を若くしてやめた人々の会(脱久会)で創挑戦するエネルギーをチャージした。
絵画はある中学の羽生輝先生の影響で目覚め好きになった。
なんでもそうなのだが、手本があるうちは本当の創作や挑戦には臨めない。空白地帯まで歩みを進める勇気が必要。
結果がどうなろうとも世界創造という欲求は最高階層の欲求なので常人には理解できない無茶をする。
田中一村が恵まれた天才であることは10才ぐらいには世間が認めていた。手本のある世界で最も上手かったのは10代の美術学校入学前かもしれない。すでに十分に画家として生きてゆくための支援者がいた。しかし一村(邨)、その頃は米邨
日本画『蕗の薹とメダカの図』は後援者には受け入れられなかった。
これが長く訣別の原因とされるこの絵の実物はいかにも手抜きの作品だった。たぶんわざと拗らせたのだろう。現実に食べて行くための絵と院展に二度も連続して落ちた絵が見られるのも画家生涯の貴重な対比だった。
第19回に入選して1948年 - 第20回青龍社展に『秋晴』『波』を出品。このうち『波』は入選するが、『秋晴』の落選に納得できず、『波』の入選を辞退。これを境に川端龍子と絶縁する。日展には美術学校同期の東山魁夷が審査する側で落選という憂き目を見ている。それでも彼は画家としての生き方を捨てない。退路を断絶し奄美に移り住む。