公開メモ DXM 1977 ヒストリエ

切り取りダイジェストは再掲。新記事はたまに再開。裏表紙書きは過去記事の余白リサイクル。

今読んでる『リスク・リテラシーが身につく統計的思考法』

2018-09-19 09:01:03 | 今読んでる本
『リスク・リテラシーが身につく統計的思考法』 ゲルト・ギ―ゲレンツァー
原題 //Caluculated Risks// how to know when numbers deceive you
今更ながらだが、2003年の2010年焼き直しである。こういう啓蒙は大体成功していない。事実2011年の福島放射能汚染に関係して統計的表現で健康リスクを伝えたメディアはないし、むしろ食べて応援していたアナウンサーが白血病になってあらぬ因果関係を探られることになった。自然的発症確率を全く無視した議論は甲状腺の障害に何らかの関係性をにじませながらデータを隠したとかそういう人為的事象にずれたリスクの記事は見かけたことはある。しかし正面から確実性は幻想だと言い切った浮揚をは皆無であろう。このあとも考えは改まっていない。

ベンジャミン・フランクリン(100ドル紙幣の肖像 )の至言
「死と税金のほかには確実なものは何もない」「この人生において確実なものは何もない、死と税金を除いては。」

人間は確実性を望んでいるから次々と確実性の幻想を作り出す。これに抗すにはどのような明言(命言)も確率を含んでいるということを忘れないことだ。
そのためには相手の明言の根拠を何に基礎づけているかということを知らなければ検証のしようがない。
検証などできないのが人生の判断場面だろう。どんなに情報があっても、相手は都合の悪いことは言わないし、言わなかったからといって相手が意図して言わなかったという証明が詐欺の実証に必要になったとしても判断した側の責任で証明するのが常だから、薬の服用ひとつとっても副作用がない確実性を求めるならば飲まない方が良いということになる。治療せずに治る確率があれば、放置するのも合理的判断といえる。

リスクゼロが何事にも要求されているが、リスクは危険の度合いではなく、例えば人生で言えば、中心的予測からの許容外れ度を超えて早く終了したり、遅く終了したりする寿命のことで、確実なことは死しかないというベンジャミン・フランクリンの法則は破られてはいない。寿命が延びることもリスクである。短くなるリスクは自然に理解できるが、計画中心予想以上に寿命が延びると経済的に不都合なことが増える。85~86歳で死ねれば良いが想定以上に105歳まで生きた場合、子供はもはや現役世代ではなく第三者の手助けが必要になる。国民のほとんどが100まで生きるようならば国家的リスクになる。

企業であればリスクを制御するために事業を廃止したり、創造したりするが、リスクがゼロということは予想外の成長もないということで投資に面白味がない。人間も同じで予想外に早く死んだりするから人生はおもしろい。
人生のポイントは不確実性があることとその不確実性の性質を知ること、そのうえで不確実性をリスクに変換してみせること。これが福島第一原発事故をふくめた全ての危機事象に対応する為政者リーダーのなすべきことであった。


大学を選び会社(あるいは役所)を選んで最高の人生をスタートしたと思っても会社や仕事自体がなくなることがゼロではない。私の最初に就職した会社も事業を売ってしまいもはやただの工場になってしまった。仮にその当時の社会人の常識に従って一本道勤続していても、もはや潰しも何もできない再雇用人生に入り込んでいただろうし、工場のごみを整理することぐらいしか自分には仕事は残されてなかっただろう。
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