平将門の墓の一つと伝えられる未発掘古墳
小貝川から広がる肥沃な低地。そこにわずかに突き出た岡台地の先端に、県の史跡に指定されている大日山古墳があります。古墳時代後期の築造とみられる円墳で、墳丘上に岡神社が建っています。一帯には古い石碑や石仏が数多く見られますが、これは中世から近世に盛んになった大日信仰の名残で、大日山の名もそこからきていると考えられています。
朝日を拝むには格好の位置にあり、宗教的雰囲気の漂うところですが、地元ではこの古墳こそ将門の墳墓であると伝えられてきました。更に、古墳の脇が広場になっていますが、ここに将門の愛妾(あいしょう)桔梗(ききょう)が住んだ朝日御殿があったといわれています。桔梗はここで毎朝、日の出を拝み、将門の武運を祈っていましたが、将門の敗死の報を聞くと台地の下にあった沼に身を投げて、悲しい最期を遂げたという話が語り継がれてきました。
「大日山古墳」は岡台地と呼ばれる舌状台地の先端に築かれた直径約18m、高さ約2.8mの円墳で、築造時期は6世紀頃ということで昭和14年に茨城県指定文化財(史跡)に指定されている。しかし、これを古墳とすることについて疑問の声も上がっていた。例えば、①円墳とされるが、外観は方形状で、傾斜も急である、②当地では、江戸時代初期から大日信仰が盛んになり、頂上に「大日堂」があった(「大日堂」にあった大日如来像は、現在は岡公民館に安置されている。)ことから、「大日塚」として築かれたものではないか。形状も他地区の「大日塚」に似ている、③台地上に中世城郭があったようで、その櫓台として造られたものではないか、④付近で玉類や鉄鏃などが発見されたといわれるが、「仏島山古墳」からの出土物と混同されたものではないか、等である。こうしたことから、昭和63年に、古墳の周溝部とされた部分(裾の平らな部分)のトレンチ調査が行われたが、周溝は検出されず、これといった出土物もなかった。実測では、方形で、底形13m×17m、上形5m×5m。自然地形ではなく、おそらく方形に築造されたものとされる。結局、主体部の発掘調査をしなければ結論は出せないとしているが、元の古墳を中世に城郭の櫓台に転用し、近世に大日塚に改造した可能性を指摘している。
このように、明確に古墳であるとも断定できないのだが、伝承では、ここに平将門の愛妾・桔梗姫(桔梗御前)の館があり、朝日を拝むのに最適な場所として「朝日御殿」と呼ばれていた、という。桔梗姫は、将門が討たれたのを聞いて、目の前の沼に身を投げて亡くなったという伝説もある。この沼はその後、水田となったが、「桔梗田」と呼ばれて村人が共同で耕作する田となったとされている。「大日山古墳」が古墳時代のいわゆる「古墳」であれば時代が合わないが、将門、あるいは桔梗姫の墳墓という伝承もあったようだ。