地上の知識は実践的である。
知識は戦いの挑戦を受け入れなければならない。この二人の放談は知識の戦いではあるが何か白黒をつけようという戦いではない。消費するための知識である。なぜこの二人が放談に夢中になるのか説明してみよう。なぜならそれが私の知識消費論であるから。
説明
内容(「BOOK」データベースより)
世相から思想、オウムから国家まで。二大論客がニッポンの問題を一気に語り抜く。過激にして爽やか、史上最強の対談本。
内容(「MARC」データベースより)
細片化する子供たち、生と死の臨界、オカルト・ブームの深層、新世紀へ向けての4章に分けて二大論客がニッポンの問題を一気に語り抜く。まちがいなく動いている時代の胎動を読み取る対談本。
あとがきの「私と宮崎君は対談後二回とも疲労困憊だった」「若いひとと語りあかせない」
ハイエクは文化とは「私たちの蓄積された知識ストックの、時間を通じた伝達」(Hayek 1960, p.27)と言ったというが、知識伝達だけでは社会は維持できない。知識ストックは消費しなければならない。消費することで新たな知識を得てゆくことが社会を豊かにしてゆく源泉である。
ここに知の本質、金融によらない成長が可能な資本主義の本質が現れている。そのことに呉氏は気づいているだろうか?放談には資本主義的成長意義があるのだ。ドラッカーが指摘したように
知識こそが真の資本である。しかしつい30年前まで知識の消費や流通は書籍や講演という物理条件に制限されていた。ところが通信コスト低下と速度上昇が(リンク先ヨビノリたくみを参照すること)知識をふたたび価値増加の表舞台に登場させる。
流通を前提とする知識消費(例えば研究をする 商品を創る 本を書く 特許を出願する 大衆に語る 友人に語る Youtuberになるなどすべての構想や言語の対象化行為)によりアウトプット側の、知識が増大する 増大分Δ知 これを得るために資本がある。Δ知 が資本である。これが最終的に人間のネットワークに生き残ろうとする資本主義である。
究極の資本主義、少なくとも次の資本主義はΔ知を得るための知識の消費である。次の社会で人々は彼らが継続性にコミットし能動的であろうとする限り、将来の社会では資本家も労働者もΔ知を欲しがっているだろう。知識は独占できないがΔ知を得る仕組みは独占できる。古い金利の奴隷社会の資本主義は金利がマイナスとなって終わりつつあるが、まだ水平線の上に古い資本主義的太陽は浮かんでいる。今は残照の時である。
Δ知を産まないアイディアは死んだ知識であり、それはつねに死にゆくビジネスである。対象化しない知識は生まれずに大人になろうとしている赤ん坊である。金利をベースとした成長には限界があるがΔ知には限界がない。
それ故に知識を自ら得たかのような錯覚を植え付けようとする知識優越者(病原体保持者)たちと知識を最大消費して戦わなければ、消費できない知識(洗脳)を喉まで詰め込まれて無言で死ぬしかない。呉智英は、知識人が知識を本気で消費できる相手が見つからずに暇をもてあましているのだろう。この時代を知識不況時代と呼ぼう。
Wikipediaより
言葉 編集
「すべからく」は元来、漢文を読み下した言葉で「すべからく〜すべし」という使用の仕方をすべきだが、学生運動の演説などで「帝国主義勢力は〜、すべからく〜(打倒すべき)」などと、長々とした文章で使われるケースが多かったせいか[6]、「『すべて』と同じ意味の言葉」として使われるようになった。そのことに気がついた呉は、「すべからくの誤用」をする著述家たちを、「単なる誤りではなく、自分の文章を高尚なものに見せようとした『卑しい考え』による誤用だ」と批判していた。
差別語狩り、言葉狩りには、活動当初から批判していて、「シェークスピアの『ベニスの商人』などの文学的に有名な作品も差別的である。これらをどうするのか」と主張。また、歴史的な記述などで、現在の「いいかえ語」を過去にさかのぼって適用し、過去の歴史的な記述や、過去の作品まで「いいかえ語」に置き換える風潮を、「歴史の改竄」と激しく批判している。
^ なお、澁澤龍彦も著書『太陽王と月の王』で「すべからくの誤用」についてふれており、それを流行させた元凶は唐十郎ではないかと推測している。
^ ちなみにそれに関連して、漫画の北斗の拳の面白さは、人民が持っていた復讐権を登場人物が自由に行使している点にあると指摘している。