われわれはデカルトの時代の人間ではないのだから論理の適用について絶対を導入できない。アリストテレス以来長く続いた信念、つまり論理構造が世界の構造でありそれを解明する方法が論理的で構造的でなければならないという信念はヴィットゲンシュタインによって捨てられた。語るということは、何か(語る原初:ここをシニフィアン【コトノハ「やまとうたは、人の心をたねとして、よろづのことのはとぞなれりける」仮名序】としてもよい)を、己自身のなかから、拾うということである。その何かに意味がある(シニフィエ【コトエリ: 「文を書けど、おほどかに言選りをし」に由来】を含む)と誤解する、あるいはさせる自由だけが人間に残されてた可能性の発露のこと。
容貌きたなげなく若やかなるほどの おのがじしは塵もつかじと身をもてなし 文を書けどおほどかに言選りをし 墨つきほのかに心もとなく思はせつつ またさやかにも見てしがなとすべなく待たせ わづかなる声聞くばかり言ひ寄れど 息の下にひき入れ言少ななるが いとよくもて隠すなりけり
従って、野性との区別、卑近な例えでいえば、猿と人間の区別は、意味づけ誤解するさせる自由を自分の所有、もちもの、占有、発明あるいは啓示ととらえ直しする事で人類は野性からの離脱を成し遂げてきた(象徴界の獲得)。
つまり野性とは、以上の言い換えに過ぎないが、種族自身のなかから、自由を拾わない動物属性である。しかしその離脱したはずの野性世界も論理と構造を突き詰めると再び人間に降伏を迫ってくる。
つまり人工知能が語り得ぬものとして登場した時、われわれは再び沈黙し、人間種族社会は野性の世界に引き戻される。
人間にとって死の恐れは自然のことだ。死は自由喪失の極限である。だが他の生物は違う。死を恐れずに受け入れる動物の平常は見ていて美しい。
人間のように凶暴ではなく無謀なこともしない。
死を含みかつそれを超える語りえぬものこそ我々の幻想の根源である。ヴィットゲンシュタイン曰く人間によって「世界は諸事実へと分解される」そして、諸事実を集めることで世界が再創造される。サイエンスはその最もわかりやすい世界再創造の体系である。
しかし反論もあるだろう。自意識に浮遊する何かを拾う情熱はChatGPTからは得られないと。(名古屋大学理学部長寺崎一郎さん)
寺崎教授の言うとおり、
コンピュータの計算に情熱はないだろう。しかし拾った自由(新しい概念、新しい表現、新しい形式、飛び抜けた論理)が人工知能には絶対的にないという根拠もまた、もはやないと思う。
個別の絶対化という人間固有の自由の選択(キリスト教の場合は自由意志を許可されているのは地上では人間だけで、天使にも悪魔にも自由意志はない:神自身はさておき、彼らは所詮、神という野性の創造の一部なのです。)が文明の基礎であることは疑いがないが、それが自由を否定する野性の一部であったと知ったときの絶望を想像してほしい。