公開メモ DXM 1977 ヒストリエ

切り取りダイジェストは再掲。新記事はたまに再開。裏表紙書きは過去記事の余白リサイクル。

算盤の上に論語を置く <道義と想像力>

2010-10-06 16:10:18 | 日記
「算盤の上に論語を置く」

        伝 渋沢栄一
「論語にはおのれを修め人に交わる日常の教えが説いてある。論語は最も欠点の少ない教訓であるが、この論語で商売はできまいかと考えた。そして私は論語の教訓に従って商売し、利殖を図ることができると考えたのである(p31~32)。」 

        渋沢栄一著『論語と算盤』(角川ソフィア文庫)



どういう意味かは想像に難くない。

法整備が十分でない資本主義の草創期にあっては判断基準が客観的でないからこそ、「算盤の上に論語を置く」という企業倫理は絶対必要なことだったのかもしれない。

義を以て起業家同士が信じ合えなければ、無政府どころか禽獣の闘争、強欲の天国となっていたことだろう。

万人の万人に対する闘争が資本主義であるという立場から、渋沢栄一は資本主義的な株式会社を組合団体のように誤解していたと批評されるが、社会が安定して法整備が整った現在からその時代にいた人を批判するのは間違っている。


ひるがえって、今のこの國の資本主義はいかがだろうか。

一流企業にあっては企業内の戦いにエネルギーを削がれ、中小企業にあっては資金と売上げに目を配りながら逃れる道を探している。

銀行にあっては人よりも売上げ、文書・計画書、計画書よりも担保物件、時間のかかる事業よりも手っ取り早い債権取引と堕落している。

何が日本の資本主義に足りなくなっているのか?

<道義と想像力>である。

本来、<道義と想像力>は個人一体の能力であるのだが、想像力を対象化する能力に置き換えするうちに、義を以て他人(ひと)を信用する力を失ってしまった。

個人が判断することを避け、組織が判断することに置き換えてゆく修正は、一見近代的であり、意図せぬ誤りを未然に防止する合理性を高めると見えるが、総てがそうではない。


この國がこのままでは、最終的には、<道義と想像力>に基づいて他人(ひと)を信用する力が資本主義の隅々から失われてしまうことだろう。


残るのは現状のまま逃げ切る気持ちと、逃げ切る同胞を憎む気持ちだけ。

年収200万円以下の若者が年金収入400万円の老人をどういう気持ちでお世話し、何を尊敬したらいいかわからなくなる前に、<道義と想像力>を取り戻すべきだ。
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