公開メモ DXM 1977 ヒストリエ

切り取りダイジェストは再掲。新記事はたまに再開。裏表紙書きは過去記事の余白リサイクル。

「ニーチェからスターリンへ」 トロツキー人物論集 レオン・トロツキー

2015-09-25 09:07:21 | ジョージ・ソロスのワンワールド
『東方評論』1900年10月22,24,25,30日号

「読者にはもはや明らかだと思うが、この最近死んだドイツの逆説家ー彼のアフォリズムはしばしば相互に矛盾し通常十通りもの解釈の余地がある-著作に対して、このような純粋に言説上、テキスト上の関わりを持つことが生産的であるとは思われない。」

とトロツキーはニーチェ哲学を正しく説明する唯一の方法は、腐った社会の産物としてニーチェの言説を位置づけることだ。と正統派マルキストのような階級と其れを支えるプロレタリアート(ルンペン、寄生虫)を分類してみせた。しかしこのシリーズ投稿の結論はそうであっても、その前半は相当にニーチェの超人思想を魅力的なものとして描いている。

「主人のために、そして、主人おためにのみ超人の道徳はつくられているのである。これはなんと新しいことだろうか!」

そういうことは主とした問題ではない。結果としてトロツキーが情熱的に超人信奉者の手先を演じていたということ、これが、彼の精神の中でどう消化されていたか問うことの方が問題である。1919年の熱情込めた演説はなんだったのか?
『同志諸君、わが国において、2月革命と7月事件との間に4ヵ月が経過した。すなわち、ペトログラードのプロレタリアートにとっては、街頭に出て、ケレンスキーとツェレテリの国家聖堂を支えている柱を揺さぶってみたいという抗しがたい欲求をおぼえるためには、1年の3分の1が必要であった。7月事件における敗北の後、地方の重い予備軍がペトログラードに追いつくまでに再び4ヵ月が過ぎた。そして、われわれは1917年10月に、勝利への確信をもって、私的所有の牙城に対する直接的な攻撃を宣言することができたのである。

 君主制を転覆した最初の革命が11月の始めに起こったばかりのドイツにおいて、1月にはすでにわが国の7月事件が生じた。このことは、ドイツ・プロレタリアートが彼らの革命において、短縮されたカンレンダーに従っているということを意味するのであろうか? われわれが4ヵ月を必要としたところで、彼らは2ヵ月を必要とした。そして、この同じ縮尺が今後とも存続するということをわれわれは期待することができるであろう。おそらく、ドイツの7月事件からドイツの10月まで、わが国でのようには4ヵ月もかからないであろう。より短い期間――おそらく2ヵ月、いやもっと短い期間でさえ十分であろう。しかし、これからの諸事件がどれくらいの期間で経過しようと、一つのことは確かである。すなわち、カール・リープクネヒトの背中に撃ち込まれた銃弾は全ドイツに巨大な反響を呼び起こすであろう。そしてこの反響は、ドイツやその他の国のシャイデマンやエーベルトどもの耳には弔鐘の音として響くであろう。』


トロツキーの内心も熱情も歴史の闇の中に消えている現時点で、ニーチェに対する19世紀末の熱狂は今を生きるわれわれはどのように評価するべきか?なぜこの病人のアフォリズムを預言者の声のように欧州世界が受け止めたのか?そこが精神的消化作用としてわれわれ東洋人に理解できないところだ。「ツァラツーストラはかく語った」かもしれないが、むしろ私が知りたいのは「ツァラツーストラは何故語ったか?」ということの方だ。あるいはどうしてそのタイミングで語ったかということだ。


100年以上を経た今日、ツァラツーストラの語る世界はわれわれの目の前にあり、資本家のように事業や労働者を管理する苦痛さえ無い超人という立場、ただ冒険に熱狂し興奮のために生きている超人は、ソロスを含め、もう既に何百人かこの同じ地上に存在し歩いている。彼等こそ事実上の超人である。突き落とされるだけのあまりにも多いものたちであるわれわれはこれをどう精神的に消化したら良いのだろうか?ツァラツーストラが語る時代は、核の時代の前であり、超人とともに到来するのはまさにゾロアスターの火の神キノコ雲である。

「しかしながら 、このポーランド分割において 、スターリンの戦術に対するヒトラーの戦略の優位性は明らかである 。ポーランド出兵を通じて 、ヒトラーはスターリンを自己の馬車に結びつけ 、スターリンの策略の自由を奪った 。ヒトラーはスターリンの権威を失墜させ 、そのついでにコミンテルンを抹殺した 。ヒトラーが共産主義者になったなどとは誰も言わない 。誰もがこう言う 。スターリンがファシズムの手先になったのだと。」

「ツァラツーストラは何故語ったか?」それは階級闘争などという遊戯や戦争、スターリンの抹殺陰謀などでは終わらない人間、人類、あまりにも多いものたちのあまりにも深刻な、われわれがまだ目にしていない終結点を直感し幻想図を目にしたからだ。ニーチェはその意味で予見者であり預言者である。

『ショウペンハウエルの哲学は 、いろいろな人に影響を与えた 。いちばん影響を受けたのはニ ーチェだろう 。ニ ーチェが哲学に目覚めたのはショウペンハウエルによってだったし 、ショウペンハウエルは 「生に対する盲目的意思 」といったが 、ニ ーチェは後になると 、それをもじったような言い方で 、 「 W i l l e z u r M a c h t 」 (権力への意思 )と言い出している 。ニ ーチェがショウペンハウエルに惹かれたのは生まれや生き方が似通っていることもあるだろう 。ショウペンハウエルもニ ーチェも 、かなり孤独だった 。愛しもせず愛されもせず 、友人関係もあまりない 。それから 、方々を歩き回った人生という共通性も影響したかもしれない 。』
「読書について 知力と精神力を高める本の読み方」 ショウペンハウエル ・著 渡部昇一 ・編訳

ニーチェの語る永劫回帰は従来より信じられていた生命と精神の定説によっては全く理解できない。なぜ本質において同じ瞬間が繰り返し永続しているのか?進化はどう解釈するのか?われわれに発展はないのか?全ての前提を覆すことなしにこのニーチェの霊感は説明できないと私は思う。私の見解は従来哲学とは全く違う。
ニーチェにおいて生命と精神の起源は宇宙の創造に連結しているという前提から始まる。つまり意識精神及び生命存在は無存在の連結なのだ
ということを前提にしなければ、永劫回帰の言わんとしたことは全く理解できないだろう。ニーチェの見た永劫回帰とは無存在の連結=生命と精神の起源のことである。
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 壇蜜日記 | トップ | 元素変換 現代版の錬金術の... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。