住所はこれがいいな きれいな・すこやか・すずらん
岡田奈々
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///ちゃんと・ひかった・すわり
この土地には
江戸時代末期 東京都千代田区小川町2丁目に旗本2千石太田播磨守資深(スケフカ)の屋敷があった。故にこの辺り一画だけ氏子が異なる。不思議に思っていた。小川町二丁目と神田錦町一丁目は太田姫稲荷を祀っている。その他は神田明神である。太田道灌に縁があるが血筋は不明。岩槻系が嫡流らしく江戸系であろうが偽書改竄があり不明となっている。いずれにせよ太田播磨守は徳川家定(在位:嘉永6年・1853年~安政5年・1858年)の御側衆 御奏者番として
仕えていた。1840年天保十一庚子年三月二十八日卒
京都西の町奉行を務めていた経歴もある。旗本の実力者でもあった。御側衆は将軍に近侍して将軍の警護、大名の取次ぎなど幕府役職の重職。
御小姓、奥向き小姓、御小納戸などを差配する。
『天保九戊戌年七月朔日西丸御側御用御取次被仰付御加増千石被下置都合高二千石ト成』と記録が残る。
天保九戊戌年(天保九年戊戌 大隈重信、岡田以蔵=人斬り以蔵、後藤象二郎、中岡慎太郎、山県有朋、安田善次郎が生まれた年、干支が私と同じ)といえば高野長英 前年の天保八年商船モリソン号が打ち払われるモリソン号事件が起きた。翌天保9年(1838年)にこれを知った際、長英は「無茶なことだ、やめておけ」と述べており、崋山らとともに幕府の対応を批判している。長英はそうした意見をまとめた『戊戌夢物語』を著し、内輪で回覧に供した(ただし、長英の想像を超えてこの本は多くの学者の間で出回っている 今で言うSNSでしょう)。その翌年蛮社の獄が勃発。長英も幕政批判のかどで捕らえられ(奉行所に自ら出頭した説もある)、永牢終身刑の判決が下って伝馬町牢屋敷に収監。牢内では服役者の医療に努め、また劣悪な牢内環境の改善なども訴えた。これらの行動と親分肌の気性から牢名主として祭り上げられるようになった。獄中記に『わすれがたみ』がある。弘化元年(1844年)6月30日、牢屋敷の火災に乗じて脱獄。
このようにこの時期大田播磨は将軍の御奏者番も務める実力を持っていた。大田播磨守は大塚同庵の塾の教授を務めた砲術家しての八千雄の能力を高く評価したことと思う。表向き砲術家実は隠密林八千雄が幕府の中枢に抜擢された契機に太田播磨守の強い推挙が与っていた。
林八千雄の師匠が内田弥太郎
内田弥太郎 文化2年~明治14年(1805~1882)
号を五観 (いつみ)又は観齋とも名乗る。通名・弥太郎という。
幕末・明治期の和算家にして伊賀者同心。
高野長英に蘭学を学び天文学・測量の学者で明治に入ってから太陽暦の導入に関わった。
弟子には赤松小三郎(上田藩士・兵学家)荒至重(相馬中村藩、後に二宮尊徳に師事)など多彩な人物を輩出する。蛮社の獄に連座するが林八千雄の政治力で解放される。もちろん大田播磨の力を借りたのだろう。