公開メモ DXM 1977 ヒストリエ

切り取りダイジェストは再掲。新記事はたまに再開。裏表紙書きは過去記事の余白リサイクル。

知識を消費する 8 チャンネルを持つ

2020-06-19 20:54:00 | 知識を消費するということ

知識の消費が資本である社会は非常に分権的である行為を前提に規制と共に資本の集中が逓減される。

分権的行為としてYouTubeにチャンネルを持つことがごく普通になる。既に地上波には主導権がない。資本も集まらない。ー

非所与としての自己の哲学>というのは、常に現れたり必要とされるものではない。

それは創造する人間の拠点である。積極的に人間が創造的活動を行う時は、ある種の生命を燃焼犠牲にしている。

われわれは生きながら毎日、毎分死んでいる。消えないものが原初の心還るべき故郷である。企図の死を通じてそこに帰郷する。

心の拠点である自己は与えられてはいない。意識=行動創造の主人である頭脳構造を持つわれわれはそれまで完備した無の円環つまりいくら入れようと思っても私というものは入れようのない原初の心から、もがき苦しんで疑問と答えの切れ目を見出す。創造しているのではなく見つける。小乗にいう諸法無我に相当する。

哲学とその頭脳はそれを写し取っているだけである。時に不完全に疑問のみ写し取る、その結果が自我である。答えのみ写し取るそれが神託でありインスピレーションである。

従って自己はあらかじめ与えられていない。自己は生命燃焼の前にはない。完備した無の円環という空っぽである自己を所与(自明)とみなし空っぽを実現しようとする無理不道理が近代合理主義の自立的自我ののりうつりを経由した矛盾露呈へとつながってゆく。
個人的信条、思考とその構造を測定することだけが哲学である、これに30年かけた。











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