大嘗祭を宗教的と言う秋篠宮は修身からやり直し給え。
「考えてみれば異例中の異例の出来事でした。宮内庁記者たちは、まったく想像もしていなかったでしょう。まず第一に昭和天皇が1月に亡くなられた、その年の8月のことで、まだ喪中でしたからね。しかも、礼宮は学生という御身分、当時はイギリスに留学中でした。年齢もまだ23歳とお若かった。兄宮に先駆けるというのも、長幼の序を重んじる皇室において、考えられないことだった」
今上陛下と別人種なら無理か。皇統もここに窮まれり。
すでに終わったことだった。
新嘗祭
天皇陛下は、この日、今年の初穂を神々にお供えになって、御みずからも新穀をきこしめすのであります。
新嘗祭の御儀は、毎年行われるものでありますが、天皇御即位のはじめの新嘗祭を、特に大嘗祭と申しております。
大嘗祭は、わが国でいちばん尊い、いちばん大切な御祭であります。御一代に御一度、神代そのままに、こうごうしいこの御祭をあそばされるのは、実にわが大日本が、神の国であるからであります。
皇祖天照大神は、高天原で五穀の種子を得られて、これを天の狭田、天の長田にお植えさせになり、やがてみのってから、大嘗殿できこしめされました。
皇孫瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)の御降臨の時、
「吾が高天原に御す斎庭の穂を以て、亦吾が児に御せまつる」
と仰せられ、この稲を以て御祖先をまつり、御みずからもきこしめし、万民にも与えるようにとおさとしになりました。このようなありがたい大御心にしたがって、御代御代の天皇は、この御祭をおごそかに行わせられたのであります。
大嘗祭の御儀には、まず悠紀・主基の二地方に分けて、新穀をたてまつる斎田をお定めになります。そうして、御祭は特に京都で行われるのであります。
*今上陛下の大嘗祭は、昭和三年十一月十四日から十五日へかけて、行わせられました。 御儀式は、厳粛をきわめたもので、夕方から始りました。宵の御祭が行われることになると、古式による御質素な殿舎が、闇につつまれ、ときどきもえあがる庭燎の火に、黒木の柱と庭の上の敷砂とが、ほのかに闇の中に浮かび出ました。
*今上陛下は昭和天皇のこと
神勅 豊葦原の千五百秋の瑞穂の国は、是れ吾が子孫の王たるべき地なり。宜しく爾 *01皇孫就きて治せ。さきくませ*02。宝祚 *03の隆えまさんこと、当に天壌と窮りなかるべし。
1爾:二人称の人代名詞。そなた。なんじ。 *02幸くませ:幸いでありますように。 *03宝祚:天子の位。皇位
【現代語訳】 (天照大御神が瓊瓊杵尊に勅されるには、)
葦が生い茂り、永遠に瑞々しい稲穂が豊かに実るこの国は、わが子孫が君主として治めるべき国土です。わが孫よ、行って治めなさい。幸いあらんことを。皇位・皇室の繁栄は、天地とともに永遠に続き、終わることがありません。
出典
注釈『初等科国史』『初等科修身』(復刻合冊)
この日、帝国の臣民は、いずれも業を休み、おこないをつつしんで大御心を奉体し、一君万民の至誠をあらわしました。私たちは、この記念すべき日を思うて、神の国日本に生まれた喜びと信念とを新しくするものであります。
本家。中心になる家を宗家という。すなわち天皇家は國民の本家筋なのです。簡単にいえば人間に稀な天然記念物。悠久の霊威に基づく家系尊敬のどこが宗教でしょう。日本人が深山幽谷の大樹に出会った時と同じナチュラルパワー感受と同時に畏敬の感情を持つところに日本人の中心たりうる資格が天皇一家に生じる。
私たち日本の国民は、天皇を現御神と仰ぎたてまつるとともに、また皇室を宗家 *としていただいているのであります。天皇陛下は、この皇室の御家長で、皇族はその御家族でいらっしゃいます。 天皇陛下は、御名を裕仁と申しあげ、明治三十四年四月二十九日、御降誕になりました。 御年十六歳で、立太子の礼*をおうけになり、御年二十一歳から、大正天皇の久しい御病気のため摂政として、まつりごとをごらんになり、昭和元年十二月二十五日御年二十六歳で御践祚、同三年十一月十日御即位の礼をおあげになりました。御恵みは国の内にあまねく、御稜威は国の外までかがやき渡っています。まことにめでたいかぎりと申さなければなりません。
まことにめでたいのです。建国の困難を共有する一族が日本人であるという教育さえできていない。
長髄彦の軍勢と決戦なさることになりました。 御軍人たちは、一せいにふるいたちましたが、賊軍も必死になって防ぎます。またまた、はげしい戦になりました。折から、空はまっ暗になり、雷鳴がとどろいて、ものすごい雹さえ降って来ました。すると、どこからとなく、金色の鵄が現れて、おごそかにお立ちになっていらっしゃる天皇の、御弓の先に止りました。金色の光は、電よりもするどくきらめいて、賊兵の目を射ました。御軍は、ここぞとばかり攻めたてました。賊はさんざんにやぶれました。かねて、天皇に従いたてまつることをすすめていた饒速日命は、ついに長髄彦を斬って降参しました。 大和地方はすっかりおさまって、香久・畝傍・耳成の三山が、かすみの中に、ぽっかりと浮かんで見えます。民草は、よみがえったように、田や畠でせっせと働いています。やがて天皇は、畝傍山のふもと、橿原に都をおさだめになり、この都を中心にして大神の御心をひろめようと思し召し、かしこくも「八紘を掩いて宇と為む」と仰せになりました。そうして、この橿原の宮居で、即位の礼をおごそかにおあげになって、第一代の天皇の御位におつきになりました。この年が、わが国の紀元元年であります。
「八紘を掩いて宇と為む」とは《あめしたをおおいていえとせん》とした方がわかりやすい。これだけでも八紘一宇が歪んで伝承されていることがわかる。八紘一宇は田中智学の造語。田中の設立した国柱会には石原莞爾、宮沢賢治が入会している。
こうして、五百年ばかりの年月がたって、第十代崇神天皇が御位におつきになりました。天皇は「神鏡を身近く奉安しているのは、まことにおそれ多いことである」とお考えになり、御鏡に御剣をそえて、これを大和の笠縫邑におまつりになりました。第十一代垂仁天皇もまた、その御志をおうけになり、伊勢の五十鈴川のほとりに、あらたかな社殿をお造りになって、そこにおまつりになりました。これを皇大神宮と申しあげます。国民も、今はまのあたりに神宮を拝して、ますます敬神の心を深め、国の尊さを、はっきりと心に刻むようになりました。
こういう歴史を教えて初めて伊勢神宮の祭事の意味がある。天皇陛下の妹君 黒田清子(さよこ)様のお役目、伊勢神宮祭主を秋篠宮皇嗣殿下は何と心得ているのでしょう。
敬神の心のない皇嗣殿下とは何者でしょう。
敬神の心のない皇嗣殿下とは何者でしょう。
満洲には、元明天皇の御代に、渤海という新しい国が興りましたが、この国の王もまた、わが国がらをしたって、聖武天皇の御代に使節を送り、ていねいな国書とめずらしいみつぎ物とを持たせてよこしました。渤海は、その後、国がほろびるまで約二百年の間、三十数回も使節を送って来ました。その使節の一行は、今のポシェット湾または清津附近から、敦賀へ向かう航路を取り、日本海の荒波をしのいで来たのであります。朝廷では、いつも使節をあつくおもてなしになり、またわが国からも、答礼の使節をおつかわしになりました。
このように、奈良の御代御代には、東亜の国々がしたしく交って、共栄の喜びを分っていました。しかし、わが国は、その間でも、決して国のまもりをおろそかにしなかったのです。 都や地方の役人たちは、御代の栄えをことほぎながらも、いったん事があれば、いっさいを捨てて、大君のために死ぬ覚悟をきめていました。大伴氏・佐伯氏のように「海行かば水づく屍、山行かば草むす屍、大君のへにこそ死なめ」と、世々にいい伝えいい続けて来た武人の家もありました。こうした気持は、ただに文武の役人だけでなく、国民全体の心でありました。
この歌の 大君のへにこそ死なめ とはこのような国柄を武人として宗家の手足であること基本とする。上皇陛下もこれを教えずに宗家をなんとせん。