公開メモ DXM 1977 ヒストリエ

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書評 「街場の戦争論」内田樹(著)

2024-06-15 22:39:00 | 日本人

内田樹はこのブログで2回目の登場になる。1回目は修行論におけるキメラ身体論だった。
今年のこの本を手にした時はどうしてこれほど敗戦に関する主張が自分に近いのかと思った。ヨイショでは書評にならないので、だから、自分見る目の違うところだけを書評にしたいと思う。99%同意できるこの戦争論という形の戦後日本の原点論を見てみよう。いつものように書籍の中で、心に残る言葉から、
「岡本喜八監督の『独立愚連隊』は戦争映画の傑作で、僕のオールタイム・ベストの一つです」
「僕は江藤淳ほど烈しい言葉遣いはできませんが、彼が言いたいことはわかる気がします。敗戦の時に決定的断絶があり、それは日本人の「身体」に切り込んで、生物としての必須の器官に傷つけた。「色眼鏡をかけた」のではなく、「義眼を嵌めた」というメタファーにこの傷の深さについての江藤の実感が込められていると思います。何かが外部から付加されたのではなく、本体そのものが変容されてしまった。「自分は眼を刳り貫かれたのだ」という痛覚と病識を持つことができなければ、「自分の眼で世界を見ていた時の世界の風景」を思い出すことはできない。」

『独立愚連隊』は1966年からTVドラマ化もされた、TV版の『遊撃戦』は監修が岡本喜八で映画同様、佐藤允も主演していた人気番組でした。『独立愚連隊』以外の戦争の悲惨を描いた映画に共通する結末は、残された者達に残された茫漠とした時間という薄っすらとした希望に頼るしかなかったが、戦争を自ら戦った岡本喜八監督は違った。戦場にいる人々の知恵と非常時の死ぬこと以外の希望を持つこと、きれいごとで諦めない兵士の現実教えてくれていた。映画は観てなかったけど、ドラマの方は毎週みていた。



江藤淳の臣民としての言葉は重い。

私の父は、ちょうど植木等やハナ肇と同じくらいの世代で、無理しなければ戦争に征く必要もなかった世代だが、口減らしのために家族の事情を忖度し、自ら志願して海軍航空隊にはいり16歳8ヶ月で、三重の特攻基地で終戦を迎えた。
私がまだ子供の頃、近所の招集された戦中派のオヤジ達が集まって酒を飲んだ時でも、オヤジ達は戦争のことは、抑留も特攻も面白おかしく言うだけで、本当の重い体験は何一つお互いに言わなかった。
彼ら戦中派は、父よりはやや年上の、戦地で人生が失われた大正生まれ世代の同輩だ。内田樹氏が指摘するように、本来ならば20代の創作の盛、時代の文化を担う若者たちがいなかったこと、このことは戦後原点を語る上で忘れてはいけない。文学者は口籠っていた方がいいと言って川端康成らを守ったのは小林秀雄だが、安全なところから従軍した文学者達は全く沈黙した。

ここでただ、一つだけ内田樹氏に注文をつけるなら、死んだ者達だけでなく、生き残った者達も臣民として名乗り、臣民として語ることができなかったということも忘れてはならない。虚脱とかそういうことではなく、彼らには形のない罪悪感を植え付けられたと言ってもいい。私が年齢の引き合いに植木等やハナ肇を比較に持ってくるのは訳がある。

クレージーキャッツ彼らの出演した破天荒なコメディー映画は面白い。しかし、演者として植木等やハナ肇が飲み込む役柄と自分の核となる前史としての自分との距離に苦しみを感じてやってる、彼らのコメディーは、そこが透けて見えるのだ。つまり彼らの世代は心ならずも食うためにやってるという言い訳と、その延長で成功する後ろめたさがある。俳優としては鶴田浩二も同じだ。成功していても大きな過ちをしているかのような感性を残している世代なのだ。そこが少し若い高倉健などと違うところだ。
文藝春秋に遺された手記にはー今月70年記念号ー
『その日、学徒動員でさせられていた貨車から石炭を降ろす仕事は、何故か休みだった。同級生に寺の住職の息子がいて、寺の近くの池が、格好の遊び場になっていた。僕は黒の金吊り(当時の水泳用の褌)を穿いて、久しぶりの休みに、友達五、六人とその池で遊んでいた。昼頃、別の友達が「天皇陛下の放送があるらしいばい」と、僕らを呼びにきた。全員で寺へ走っていくと、ラジオから雑音だらけの音声が流れていて、大人たちの何人かが泣いていた。僕には、何を云ってるんだか聞き取れなかった。友達が言った。「日本が戦争に負けたらしいばい」「えー、降参したとな?」その後何度となく味わった、人生が変わる一瞬。諸行無常。この時が、初めての経験だったような気がする。』これが高倉健の世代だった。

戦争に飲み込まれた世代のそういうところを見ておかないと、単にあるべきだった戦後文学と戦後文化を手法として想像したとしても心の傷に踏み込めないだろうと思うのです。

 
 
「カテリーナ・ヴァレンテ・ショーで歌ったのが“スーヴェニール東京(東京からのお土産)”という楽しい良い曲です。」
「それじゃぁピーナッツお願いします。ドイツ語でやるそうです」
で、「スーヴェニール東京」をドイツ語で歌います。

続いても圭三さん、ハナさん、宮川先生、植木さんの会話で
圭三「シャボン玉ホリデーでピーナッツも随分勉強したでしょうね」
ハナ「そうですね、16年間のシャボン玉の占めた位置と言うのは大きいね、宮ちゃん」
宮川「シャボン玉=クレイジー・キャッツ=ザ・ピーナッツですよ」
宮川「シャボン玉はすごい品の良いとこはピーナッツが担当して品の悪いところは・・むにゃむにゃ・・・」会場爆笑
圭三「なるほど、そういう解釈もある」
ハナ「それでね、いわゆるショー番組の中で、最近こういうような番組も無くなったんですけど、歌を向こうのポピュラーを取り入れて、踊りを入れたり、そういうような形でいろんな難しい曲をたくさんピーナッツ、歌ったんじゃないかな。」
ハナ「でね、圭三さん僕は思うことは、ピーナッツは日本の歌手の中で、このオープニングでいわゆるパァーッとこれだけ華やかなオープニングの歌手はいないんですよ。これというのはやはりシャボン玉の中で踊りあの中で歌った歌、それがたまたまあちらのテレビに認められて“エド・サリバン”のショーに招かれた。」
植木「カテリーナ・ヴァレンテ・ショーとかいろいろショーはあるけれど“エド・サリバン・ショー”と言うのは歴史が古い。江戸時代からやってる」会場爆笑
圭三「今日に限ってまぁ、勘弁することにしましょう」
ハナ「そのサリバン・ショーで歌った、やはりシャボンで歌ってそれをそのまま向こうに持っていった“ラヴァー・カムバック・トゥ・ミー”を」
P「はい」
圭三「あ、コリャ良い!じゃその時のアレンジのままで?お聴きいただきましょう“ラヴァー・カムバック・トゥ・ミー”」
「ラヴァー・カムバック・トゥ・ミー」



やはり最後に内田樹氏にヨイショがしたくなる。あるべき文学がないというイマジネーションはとてもこの著作を稀有なものにしている。失われた文化は想像力で補えば良い。

武道はもとより、能、華道、茶道、香道、修験道など、日本人が道として生み出してきた芸術・技芸の道は数知れない、いずれも修行者に道自身は目に見えないが、その道が教える諸形式を通じて道にはげむ人に対して、いつの日か自ずから感受せしむる無形の解のビジョンと師弟の魂の無意識の連結という感化、すなわち形式を包み込んでいる大きな霊的文化を想像する力、イマジネーションを信じる力という特質こそ、日本人が世界に残し伝えるべき本当の遺産と思います。

内田樹氏の着想の白眉は、エネルギーの導管という身体論を、日本という歴史的身体のすり替え事件に接続したところにあると思う。だから江藤淳の痛覚と病識が理解できるのだろう。

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