岩田太郎翁
『遠隔の専業地から持ち込まれる粗悪な蚕種(蚕の卵)に悩まされることが多く、したがって、優良蚕種が安定して供給されることは、多くの養蚕農家の願望だった。その蚕種の品質改良・製造に大きな足跡を残したのが、高野村の岩田太郎氏である。
明治二十五年(一八九二)、父の遺業である蚕種製造業を継いだ太郎氏は、蚕種の改良を重ね、優良品の製造に努めた。特に静岡県で製造法を会得した四化蚕種は各地で好評を博すこととなり、茨城県が全国有数の四化蚕種生産県となったのは、岩田太郎氏の功績が大であったといわれている。』守谷町
重要な産業であった生糸の養蚕の発展に努め、大日本蚕業研究会講習所を設置した人物である。岩田家は高野村の名主を務めていた家で、父定吉が1868年(明治元年)より蚕業を始め、太郎は家業を次いで良質な蚕種の開発に努めた。1895年(明治28年)には高野村の農会結成と同時に会長となり、蚕業の開発の成果が出ると全国に普及させるため、1896年(明治29年)に北相馬郡高野村大字高野92番地(現・守谷市高野92番地)に大日本蚕業研究会講習所を設置した。講習所の設置後は会報「蚕業の友」を毎月発刊し新説や実験の発表を行い、読者数は15,000名、会員数は4,000名を超えた。
講習所は定員30名としていたが開所当初より受講希望者が全国から殺到し、3月20日 - 4月18日までを学理を習得する一期、4月19日 - 7月10日までを実習を行う二期に分けて講習を行った。しかし、さらに受講希望者が増えたために校舎を拡張し、7月6日 - 9月10日までの講習期間を設けて三期制とした。年度ごとに代わる講師には農学博士をはじめとする蚕業界の権威者を招き、文学士なども招かれた[1]。その功績が広まった1907年(明治40年)11月には、宮内大臣を通じ明治天皇より激励の言葉を賜った。
しかし、重工業がメインとなると共に蚕業は衰退し、1924年(大正13年)7月の第24回講習生を最後に大日本蚕業研究会講習所は閉鎖となった。その後は専任教師大竹長之助が教場を守谷町城内(現・守谷市本町)へ移す形で継承し、蚕紙製造業も併せて行われるようになった[1]。
岩田太郎は講習所からは一線を引いたものの、蚕業界に貢献するために事業計画を立てていたが病となり、1936年(昭和11年)5月16日に高野村にて65歳で死去した。生前には1929年(昭和4年)3月に蚕種同業組合の名誉顧問へと推薦されるまでに17種の名誉職へ推薦されているほか、死後も「岩田太郎翁紀功碑建立賛助会」が結成され、内地のみならぬ朝鮮にも会員を有した。
紀功碑は1941年(昭和16年)11月に茨城県水戸市愛宕町にある茨城県蚕業試験場構内に建立され、第二次世界大戦後に試験場と共に同県真壁郡関城町(現・筑西市)に移され、最終的に岩田太郎の生誕地であり、大日本蚕業研究会講習所の所在地でもある守谷市高野へと移された。
高野小学校敷地の隣
「養蚕用除菌洗浄剤」はエンテロコッカス属の細菌にも有効
当研究所の野澤主任研究員は、人工飼料育で問題となる Enterococcus 属種の細菌に「養蚕用除菌洗浄剤」が有効
であることを「欧州標準法」とよばれる国際的手法で明らかにした。多少の汚染条件下でも、除菌洗浄剤の次亜塩
素酸ナトリウム濃度を調整することで対応できるため、今後の有効活用が期待される。研究成果は 2023 年 6 月に、
日本蚕糸学会刊行の“Journal of Insect Biotechnology and Sericology”に掲載された。
養蚕用除菌洗浄剤は、ホルマリンに替わる消毒手段として、野澤・代田(2012)により開発された塩素系のアル
カリ除菌洗浄剤で、食品添加物に指定されている3つの化合物(次亜塩素酸ナトリウム・炭酸ナトリウム・テトラ
ポリリン酸ナトリウム)から調製可能。ホルマリンと同じように、カイコに感染する各種病原体(ウイルス、糸状
菌、原虫および細菌類)を5~15 分程度で消毒し、強力な防錆効果と洗浄作用も期待できる点に特長がある。
開発者のコメント「次亜塩素ナトリウムは、強アルカリ条件下で次亜塩素酸イオンに変化する。このイオンの状
態では細菌細胞膜を透過できないため、細菌に対する殺菌効果に不安があった。今回の研究から、人工飼料育で問
題となる主要な Enterococcus 属種(E. faecalis, E. faecium および E. mundtii)にも有効性が確認されたので、自信を
もって殺菌効果をアピールしていきたい」
考古資料 守谷市公式スマートフォンサイト-Moriya City
いずれ同じ散歩道、こちら石田庄七翁も解説が必要かな。岩宿遺跡#
#1946年(昭和21年)頃、当時在野の考古学者であった相沢忠洋によって発見された。この発見によって、それまで土器時代以前の日本列島に人類は居住していなかったとされた定説を覆し、日本にも旧石器時代が存在したことが証明された。これ以降、日本全国において旧石器時代の遺跡の発見が相次ぐことになった。相沢忠洋の偉業は後世に受け継がれた。#
これよりも遥か前に旧石器の遺物を発見していた偉人である。この人工分布の推移を見れば、日本人の原点は群馬や茨城南部 千葉北部あたりあったとしてもおかしくはない。
石田庄七氏は、自家の所有する郷州原の山林から多くの石器、土器などの埋蔵文化財が出土すると、これを大切に保管するとともに、出土地に発掘記念碑を建立した。時に昭和十九年(一九四四)四月ニ十九日。文化財保護法が制定される昭和二十五年(一九五〇)五月に先んじること六年のことだった。たぶん郷州原は日本人発祥の地であろう。