ソクラテスの弁明
「この人は、他の多くの人間たちに知恵ある者だと思われ、とりわけ自分自身でそう思いこんでいるが、実際はそうではない」と。 そこで私は、その人が自分では知恵があると思っているが実際はそうでない、ということを当人に示そうと努めました。このことから、(21D)私はその人に憎まれ、また、そこに居合わせた多くの人たちにも憎まれたのです。 私は帰りながら、自分を相手にこう推論しました。 「私はこの人間よりは知恵がある。それは、たぶん私たちのどちらも立派で善いことを何一つ知ってはいないのだが、この人は知らないのに知っていると思っているのに対して、私のほうは、知らないので、ちょうどそのとおり、知らないと思っているのだから(14)。どうやら、なにかそのほんの小さな点で、私はこの人よりも知恵があるようだ。つまり、私は、知らないことを、知らないと思っているという点で」と。 このことから、私は、その人よりもっと知恵があると思われている別の人の所にも行きましたが、まったく同じ状態だと思われたのです。そしてそこでも、(21E)その当人と他の多くの人々に憎まれてしまったのです。
『ソクラテスの死を遡ること一世紀以上、前六世紀後半にピュタゴラスが移り住んだイタリア半島南部(マグナ・グレキアと呼ばれる地域)では、植民市クロトンを中心に彼の教えを実践する人々が、政治・宗教共同体を形成して勢力を伸ばしていた。 この「ピュタゴラス派」と呼ばれる一団は、おそらく政治的な対立によって前五世紀半ばに起こった排斥運動でその地を追われ、とりわけ前四五〇年頃、拠点を焼討ちされた後、ギリシア本土のテーバイやフレイウスに分散する。その中心人物でクロトン出身のフィロラオスはテーバイを拠点として活動をしていたが、彼の弟子エケクラテスらはフレイウスに住んで、ピュタゴラス派の一大拠点を作っていた。だが、彼らはなぜ、ペロポネソスの小ポリスに集っていたのか? エーゲ海東部で小アジアに面するサモス島に生まれたピュタゴラスは、前五三八年頃、その地でポリュクラテスが僭主として権力を独占するとその支配に反対して亡命し、南イタリアのクロトンに新たな居住地を定めたとされている。このピュタゴラスについて一つの有名な逸話が、プラトンのアカデメイアにも学んだポントス出身のヘラクレイデスの作品『息をしない女』によって古代に伝わっていた。その逸話は、前一世紀のキケロや後三世紀のディオゲネス・ラエルティオスによって報告され、失われたその作品の内容がおおよそ推定可能である。 ピュタゴラスはサモスからイタリアに亡命する途上、フレイウス(もしくはシキュオン)で、その地の僭主レオンとある対話を交わす。レオンがピュタゴラスに、彼がもっている学識とは何かを尋ねると、ピュタゴラスは自分は何の知ももってはいないが「フィロソフォス(知を愛し求める者)である」と答える。レオンはこの新奇な言葉を聞いて驚き、その意味を尋ねる。そこでピュタゴラスは、次のように答える。 「人間の生は、競技会に赴く人々に似ている。ある人は競技で勝利して名誉を得ることを求め、またある人はそこで物を売って利益を得ようとする。しかし、もっとも優れた人は、競技を観るためにやって来る。そのように、人生においても、名誉や利益のような奴隷的なものを求める生き方に対して、真理を観照し愛求するフィロソフォスの生こそがもっとも望ましいのである。」(キケロ『トゥスクルム荘対談集』5・3・8‐9から要約) 』納富