この名著を読まずしては日本に生まれ、苦労して日本語の古典を勉強した意味がない。
中世の日本人が世の中をどう見ていたのか?
少なくとも愚管抄の書かれた末法思想が貴族階級の間で全盛の時代には、世の道理は目に見えない冥府にも世の中は拘束されていると強く意識していた。慈円自身も愚管抄で「乱のことを案じてばかりいる自分の心を安らかにしたい」という動機で、世の道理が何に由来するか、その当時でさえ読解できなくなっていた日本書紀をふくめ解説し直す必要があると思っていた。だから、ましてや現代人に今なお生きる神代の連綿とその世の道理など理解できるはずがない。
しかし、ここが現代日本人が忘れている大事なところ。後で兼好と漱石もこれを題材にしていることが出てくる。心
兼好も漱石も地の良くない世の道理を凝視して世の中とか世間とか世といったものに立ち向かい書き記している。
世間から超然として凝視でもしなければ日本にいては個人主義を貫くと気が変になる。それが、今も昔も変わらない日本の姿なのです。どこを切っても神代が出てくる。どこの土地にも祖先が出てくる。どんな集まりにもシガラミが出てくる。それが日本の世のというものです。出身が同じであると、あの人と私は違うと素直に飲み込んでもらえないのが世の中。個人主義精神を実生活でバランスする必要が生じる。
そのために世を観察する人は意識の上では、兼好と同様に世を捨てている。それが日本の世という<世間>観察者の特徴です。断腸亭日乗の永井荷風もやや覗き趣味の延長の潤色があるが、やはり世捨て人である。
意外にも世間と社会は一ミリもかぶらず、似ていない、<世間>=社会ではないのです。
江戸期に入ると世間の意味は現代とはほぼ同一でも、無常は大いに異なる。好色五人女に描かれたお七のセリフに語らせる西鶴の時代の無常は過ぎ越し者へのシンパシーに近い冥の領域の奇縁の意味で、常ならぬ世の貴族的な諦観ではない。
兼好ははっきりとは否定しないが、ある財産家の無常を真っ向否定する財形の極意を伝授する言葉を引用しながら、貧者と違わぬ馬鹿げた考えと両断し、「大欲は無欲に似たり」という有名な文句を残している。
つまり世間の常識と対立する欲は世間の枠を超えて大きくはなれないという兼好さんの逆説表現が「大欲は無欲に似たり」という言葉になる。これが江戸期となるとすっかり貨幣社会で、西鶴の作品には貨幣経済の発達がある種の万能感を人々に与え、金と色に世間との間尺を狂わせ没落してゆく人々が活写されている。末法の世の後に誰も想像しなかった金の法の世が始まっていた。
色恋となるとこの世間との衝突は是非もない悲しい定めとなる。これは現代に通じる普遍的テーマだろう。
平和に見える浮世でも貞淑が情に目覚めて昼間酒という脱事になる。お七の色恋の世間との衝突は、哀れ無常かな。と西鶴が結語を加えた。しかしその無常の意図は、もはや中世の貴族や武士階級が言う<末法の世の無常>ではなく、人の力も金も及ばないところの、思いもしない世界の奇縁にこの世が包まれているという<金の法の限界>を見た感慨と読んだ方がいい。
まさしく好色五代女や永代蔵と同様に、色恋と金は現代日本人の考える世間にも通じる最低限の世間境界の指標になる。
億兆円という金を世間が感知し得ないと同じように、埒外の色恋も自分たちの世間の外であり、仮に感知し得うることがあっても、手に取ることは躊躇してしまう。ここの金は経済ではなく世間、浮世のソトとウチの境界記号、同じ世間を共有していることを前提とする無言の境界のとなるのだろう。ただ色恋となると、秘事も含まれるから、様々な世が今も昔も混在する。
庶民にとって関りのない金額はすでに各自の世間の範疇ではない。ただのニュースという記号なのだ。では、どれほどの金が実際に貴方の世間だろう。どれほどの色恋が貴方の世間だろう。つまりどこかで自主的に線を引く事を貴方に強要するのが世間という化け物だ。これを筋道と道理で言えば、本当はこのような顕である世間よりもっと多くの冥の筋道を強要する世間が隠れているというのが、日本の世間という意識、伝統的共感知性(世界観の外部化)というものなのです。慈円は世の乱れが激しいため、それが言いたかったので愚管抄を記したのでしょう。
結論:世間は社会ではなく、共感知性なのです。だから外国人に説明し難い。あたかもあるかのように皆が振る舞うことによって本当に効力を示すのが世間の道理です。故に<世間>=社会ではないのです。
『「愚管抄 」では 、慈円自身が保元の乱の原因を追求する中で 、この時代のわかりにくさに対し 、歴史の中に歴史を動かしている道理を探り出そうとしているのである 。宮中を中心としてさまざまな人々が集まり 、さまざまな主張を繰り返す 。それぞれが道理をもっており 、どんな事件にもそれなりの道理がその背後にはあるはずだと慈円は考えたのである 。小さな集団がもつ道理から 、日本の全体を動かしてゆくような道理にいたるまで 、大小さまざまな道理が入り乱れているのだが 、慈円はすべての道理の背後にあり 、一貫して変わらないものとして 「皇室以外から国王を立てることがない 」という原則を発見している 。そしてこの原則は神代に定められたものであって 、一見して道理がないかに見える歴史の背後にあって 、歴史を越える原理となっているというのである 。このように慈円にとっては神代は大きな意味をもつ現実なのであった 。いわば 「神々はかつてあったのではなく 、常に存在するものなのであった 。神代は 、天皇の系譜を遡って行った果てにそれが神々と接する世界ではあるが 、人間の歴史が始まった時に終わったのではなく 、常にあるものなのが神々と接する世界ではあるが 、人間の歴史が始まった時に終わったのではなく 、常にあるものなのであった 」 (以下大隅和雄 『愚管抄を読む 』より引用 ) 。しかし人間は神々の姿を見ることはできないから 、慈円はこれらの目に見えない神々の世界を 「冥 」と呼び 、冥の世界を構成するものを 「冥衆 」と呼んだ 。そして人間の目に見える歴史的世界を 「顕 」の世界と呼んでいる 。』
冥衆の中には崇徳院の霊が加わる
瀬をはやみ岩にせかるる滝川の割れても末にあはんとぞ思う
しかし700年かかってます。
『私たちは欧米の個人があたかも我が国に存在しているかの幻想の中で生きてきた 。したがって 「世間 」の存在を言葉や行動の中で否定してきたのである 。しかし私が見るところ我が国の人々 、特に知識人といわれる人々は全く意識していないが 、それぞれの 「世間 」の中で生きており 、自己の存在自体が 、その 「世間 」に依存しているのである 。我が国の知識人は一人になったことがなく 、自分が自分の 「世間 」に依存していることに気づいてもいないのである 。だから時に外国に出張し 、一年くらい滞在することになったときにそのことが露呈されることがしばしば起こる 。』(「教養とは何か」より)
参考
愚管抄 ー全現代語訳ー
『ところで神功皇后は 、女の身でしかも御子を宿しておいでの御体で 、戦いの大将軍をなさったのはどうであろうか 。また御子がお生まれになったのちも 、六十年もの間 、皇后が国主の座におられたというのはどういうことであろうか 。このことは 、何ごとにも特別のきまりはないという道理を 、だんだんと明らかにされたものであろう 。つまり 、男女の性別よりも天性の才能を第一に考えるべきであるという道理や 、母后が御在世の間はすべて母后のおはからいにまかせて 、御子は孝行をすべきであるという道理もあるわけで 、これらの道理を末の世の人々に理解させるために 、天皇がにわかに崩御なさり 、才能のある皇后や孝行につとめる御子があらわれるなど 、新しい道理をみちびき出すための内的 、外的さまざまな原因が集まっているのである 。』
これなどは、その御子が優秀であれば、男系譲位の原則を覆すことに何らの支障なし、沙汰に及ばずということを慈円は遠い昔に語っている。竹田某、この人は家系の重みに較べまことに発言が軽い、もっと勉強した方がいい。ただし、原則は男系なのである。これで十分。男系を確認できない(秋篠宮は非皇統男子)くらい乱れた世間が国の中心の禁裏にあっては国のかたちをリセットできない。私はそれが道理だと思う。