公開メモ DXM 1977 ヒストリエ

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書評「史談と史論」 海音寺潮五郎

2015-02-16 22:41:22 | 今読んでる本
この作品は、小説家のスケッチノート見たいなものだ。

『信玄は大永元年 (一五二一 )の生れ 、謙信は享禄三年 (一五三〇 )の生れ 、信長は天文三年 (一五三四 )の生れ 。その活動の時期を同じくしている 。この三人は皆当時における一流中の一流の英雄共であったが 、その実力は信玄と謙信が伯仲し 、信長はやや劣ったのではないかと思う 。』



戦国第一世代の武田と上杉の二人と第二世代の信長との大きな違いは、信心・本願をおのれの助勢に期待していないというところにある。平安時代からすでに平氏を悩ませた叡山にしても後発の一向宗にしても君主を仰がない政治団体として振る舞いながら利権を庇護する事実上の政治勢力であったのだが、旧世代はあくまで建前を重んじた。
謙信に至ってはほとんどシャーマニズムの戦さオタク。信長はどちらとも直接戦うことを先延ばしにしたが、営利戦略のない戦で局地戦に強い謙信の死は信長の天下構想決意を確実なものにしたと思われる。信長が死ぬまで理解できないのは狂信(理由のない権威主義)に基づく行動で、経済的理由に基づく同盟には援助し、皇室にも庇護を与え味方に組み入れている。
戦国第三世代の秀吉に至っては、信心・本願はもはや道具であり、真言宗徒を薩摩攻略の手段に使っている(このため明治まで薩摩では真言宗は禁教であった)。



『二人が互いに掣肘し合って 、信長に漁夫の利を占めさせた点もあろう 。信長の年が若くて 、二人の死後なお生きていた点もあろう 。その本国が地理的に有利であったという点もあろう 。これらのことは 、すべて無視出来ない条件ではあるが 、最も大きな理由は 、二人が旧時代の英雄であるのに 、信長は新時代の英雄であったという点にあると思う 。その最も端的なあらわれは 、二人は非常な迷信家であるが 、信長にはそんなものは毛筋ほどにもなかったことだ 。謙信の迷信家であったことは 、すでに言った 。彼は戦場における武勇をおとさないために 、信仰する軍神に不犯を誓い 、生涯かたく守りつづけた人だ 。信玄もこの点では同じだ 。彼は享楽派だから女を禁つようなことはしないが 、高野山の成慶院には 、大威徳明王に謙信の調伏を祈った 、彼の自筆の願文がのこっている 。ところが 、信長となると 、まるでちがう 。比叡山を焼討ちし 、本願寺を攻め 、高野山を征伐し 、高野聖数千人をとらえて一挙に殺してのけている 。加持だの 、祈禱だの 、呪咀だの 、調伏だのの力を 、一切信じていないのである 。』

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