思考を知るためには非思考的なものをトコトン知る必要がある。
庭の石
池の睡蓮
壊れかけた蜘蛛の巣
そよぐ笹山
すすりのこしたところてん
意外にも、これらすべてが、思考。
思考とは縁のないものに答えを見出せる感性こそ思考そのものと考えている。
デカルトの命題「我思う故に我存立す」の対偶は「我存立せざれば、我も思う事なき」や否や。答えは否である。デカルトの思考の基礎は『私が』ではじまる小我による。
方法序説(叙説)中の基準
精神を導く4つの準則として
- 私が明証的に真理であると認めるものでなければ、いかなる事柄でもこれを真なりとして認めないこと
- 検討しようとする難問をよりよく理解するために、多数の小部分に分割すること
- もっとも単純なものからもっとも複雑なものの認識へと至り、先後のない事物の間に秩序を仮定すること
- 最後に完全な列挙と、広範な再検討をすること
を定めた。
この準則との出会い自身はデカルトにとっても霊的で、運命の日1619年11月10日、ドナウ川沿いのノイブルク暖炉の部屋で不思議な夢を見ている。
1619年10月からノイブルクで炉部屋にこもり、精神力のすべてをかけて自分自身の生きる道を見つけようとする。そして11月10日の昼間に、「驚くべき学問の基礎」を発見し、夜に3つの神秘的な夢をみる。
霊的日本人は死後の思考も対話も肯定している。
そればかりでなく体に入れることすなわち思考。通常の哲学では思考とはみなされていないもの、本人さえも想と思っていないものが思考なのだ。自分で考えている状態と思い込んでいる思考、自覚できる思考反応の三段階は非常に単純で狭いものであり次の通り
1、反復
2、反射
3、投射
思考という属性の自覚はこれら3つの神経反応のネットワークがもたらす情報処理と情報蓄積、神経細胞のクラスターの総体にすぎない。脳に現象として生じるプロセスとしての思考自体、すなわち神経クラスターの属性としての思考は、考えるという属性を帯びた神経反応であり、思考そのものではない。それぞれの属性としての思考自体には何の目的も内容もない。ラマナ・マハルシも似たような言葉「真のバクティ(帰依)とは、自我を真我に明け渡すことである。(ラマナ・マハルシの伝記 P154)」を残しているが、個々の小我はただうわ言を言いながら、時に本当の思考(ラマナ・マハルシは真我:アートマン)を受け入れながら、大半の時間は生存と欲求に従っているだけである。思考という属性と思考とは全く違うものだ。デカルトの思考は属性側の思考であり、それゆえに出発点が我の存立と表裏一体となってる。魂の器をそのように小さく捉えることで独自の合理主義文明が発達したことが利己的西欧文明に後戻りしない推進力を与えたことは疑い得ない。しかしそれは脳という肉体を満足させるだけの下等な、つまり思考を欲望に従属させた文明です。
なぜなら脳は欲求と生存を満足させる器官であって、考えるという属性を帯びた反応:属性としての思考は、生き物としてみれば、副産物であるからだ。だから思考そのものほど、非思考的なこと(もの)はない。多くのこれまでの哲学は、考えるという行為を疑いなくそれ(神経反応のネットワークがもたらす情報処理と情報蓄積の総体にすぎないもの)を受け入れている。全ての哲学はこのような思考を入り口の段階で無批判に受け入れて、学の手順を誤っている。
1~3の神経反応のネットワークを人間が持っているのは、進化上の偶然にすぎない。生き物に目的不明な不要な器官や構造が発達するというのは珍しいことではない。神経反応の複雑化は、象の鼻や犀の角のようなものであろう。その意味でも人間の思考を生き物の価値の中心に置く意味は無い。所詮、無に創造されたわれわれは無でしかない。人間が考える属性だけで他の動物が支配できる長なら、同様の理由で象はその牙で、犀はその角で他の動物を支配できる長となる。人間が不幸なことにこの星を支配する地位にあるのは、自身の保存をあるときから自然(じねん)で求めるではなしに、人間の生存を己の想念(考えるという属性の総和)の理想化に縁「よすが、よりどころ」を求め始めたことによる。以下にそれを詳しく見てみよう。
第一の反復と第二の反射は生存に必要な副反応として生存の条件の最適化に利用できるので進化的に発達する。社会的にも速い判断システムと遅い判断システムとして高度に判断処理するように進化してきた。その中でも特に反射的に記憶(あるいは典型類型)を取り出す作業は、(捕食や天敵回避に有効だろう)前頭葉が本来得意としているところで、訓練が可能であり、一般に大脳生理学では、ここが精神が着座する場だろうと思われている。ところが、ネズミが迷路問題を試行錯誤して解くことと、精神が同じであればそれは正しい。
しかし、人間はインスピレーションやビジョンを写し取ることができる特殊な能力を持っている。これが投射である。
第三の投射はさらに第一と第二の反応の要請の理想化、すなわち自己肯定の成立から生じる2次的副反応(生存反応から数えると3次反応)である。
ネズミは生存反応の要請を理想化したりしない。なぜならネズミであることは生存それ自体をはみ出すことのない反応しか含まない。生存そのものだからだ。
忘却もまた同じ仕組(理想化による自己肯定)の自己都合の記憶の引き算である。
自己肯定=生存反応を理想化することなしには人間でさえ投射する思考ができない。投射によって初めて思考に妥当性や普遍性、惻隠の情といった思考内容や創作の方向性、人間性が生まれでてくる。投射の原型が直覚(インスピレーションやビジョンの原景)であり、思考の結末と答えに相当するところの原景である。正しい設問の準備が整った身体には答えが見えるから、論理的にそれを書き写すだけでいい。論理的に読み下しができなければただの幻視で終わってしまう。
したがって各人の直覚が幻となるか創造、創作、理論となるかは、まったくもって紙一重である。思考を捉えるには、単に時間の経過として経験するのではなく経験を発見する(論理的、創作的に写しとる)という作用、すなわち人間独自の脳の働きの虚構性に注目する必要がある。経験とはするものではなく、発見するものなのだ。リンク
現代のように物質文明が進むと、生産性と医学の向上で、生死と苦病が相対化され、生存反応の理想化が不要になる結果、情緒、感受性が失われる。大方、昆虫のように無愛想な人間ばかりになる。文明は高次の思考(考えるという属性を帯びた神経反応)機能から衰退させる。まず投射の段階が抑制され、代わりに低位の反射と反復が優位になる。思考と思われているもの(実のところは非思考)は極めて効率的で平板になる。したがって豊かな文明ではやがて<神>の声、直覚が聞こえなくなる。メシア(神に選ばれた王、油を注がれしもの)が現れなくなる。だからユダヤはダビデの時代から王を世襲にしてしまった。ダビデ以前のユダヤ社会の宗教は日本の宗教意識に近いものだったかもしれない(ダビデはカナン侵攻以来まだどの部族にも征服できていなかった、元々はエブス人の土地を奪ってそこにアークと石版を運んでエルサレムとし、ユダヤ王国の拠点とした)。
音が共鳴するために弦や糸が必要なように、天才は生まれたままの心の弦と糸で非思考的なものを受け止め思考反応とする。他方、普通の人間は後天的な情緒と感受性で非思考的なものを心で受け止め思考に投射する。だから情緒を感受する霊的器(うつわ)を豊かにしなければ、直接的で、共鳴的な非思考的思考を受け止めることができない。存在論を作用として捉える西田哲学は日本人独自の視点を持つ。自覚の個別に特異な作用感をもつ存在論、すなわち日本人の独自の思考はこの霊的器に関連している。
従って、思考に最も必要な非思考的感覚は直接的なもの(ビジョン、暗示、アイディア、結末)を肯定的に受け止めることができる自己肯定の感覚である。自己肯定の感覚は本来母親から受け取る母性によって育まれる根源的再生の確信である。
自己肯定のモメントを拒絶した思考は生きている限り不可能である。再生の確信が隠されているから人間は思考することができる。次に必要な感覚は、祈り・畏敬である。非思考的なものは、死のように剛直である。解釈の余地なく、やり直しのない大きな存在である。従って祈るか、畏れるか、鬼神となって直感を受け入れるか、人間にはいずれしか無いのだ。
非思考的なものは、直接的で、共鳴的な情緒がエネルギーとなって心のなかに入ってくる。決して言葉や論理を媒介とせずに、ありふれていて、コントロールし難く、かつ遠慮無しにやってくる。音や臭いや形が伴っていて思考の導きとなる。
あくまでも五感は導きであって非思考的なものの本体、すなわち思考は具体的ではない。直接的である。
五感を研ぎ澄まし、歩きながら勘はたらきを最大化するために。以下の点がヒントになる。
肉体を使って想を駆逐する
脳裏を研ぎ澄まして、五触で満たす
五感が与える想を忘れる
立ち止まっては心を丹田に置き
静寂を求めず、耳をふさがず、瞑目する。
続く。
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