『すでに序章で 「坊っちやん 」について述べたように 、私には漱石の全作品を貰いている主題として 、日本の社会の中での個人のあり方の問題があると思われる 。それをこれまで論じてきた脈絡の中でいいかえれば 、漱石の作品の中で 「世間 」と 「世の中 」はどのような位置をもっているのかという問いとなる 。』
世間と個人の折り合いは、キョロキョロして決めるのがほとんどの普通の人の行動基準だろう。なにせミクロな世間は一つとは限らないのだから、自分の所属世間がどこなのかというところから人生が始まる。この原始的な精神があれば日本で十分暮らしてゆける。
その代わり正義の貫徹というものは平和な日本の世間に全く馴染まない。正義は忘れること、貸し借りや仕事の公正は守ること、仲間は売らないこと。義理は何処の身内かどうかを表示する行為だから、絶対に欠かしてはならない。以上を守るだけでも大変な苦労だが、その上にゴマをすって、勝ちを譲る腹芸までとなるとやり過ぎにも見えるが、これが世間というもの。庶民の最大限の世間への抵抗は出奔か自ら身を引く自己犠牲というものでしかなかった(人情馬鹿物語:川口松太郎)。
正義漢の坊っちゃんにとっては赤シャツや野太鼓は俗物の極み、でもそれは小説の中の世界のこと、現実は自己保身を正当化する俗物だらけの状態(情実と建前、応酬とゴマスリ)を肯定しなければ世間は成り立たない。坊っちゃんも世間を選択して丸くなることを強いられる。
しかし日本人に時々燃え上がる民族的草莽崛起は何だろう。世間が階層と地域や信教によって分散共存している平和状態は時に突然終わる。外国や経済に追い詰められて次第に一点に集中した世間しか存在できなくなる空気が草莽崛起の前提となる<時代>なのかもしれない。おそらく大義名分も必要だがそれ以上に目に見えないエネルギーが民族的草莽崛起の主人公なのだろう。
他方で維新が終わると、あたかも草莽崛起がなかったかのようにケロッとして賂(まいない)利権や華美な屋敷を抱える俗物政治家に還る、尾去沢銅山事件など、志士たちが多くいた。また大東亜戦争が終わるとケロッと自由主義礼賛をする教師たちに恥というものがなかった。この人達は一点に収縮した世間がはじけ飛んで元の無数の世間に戻るや、正義より、戦前戦後の人格の一貫より、事実の告発より、世間を選び行動し出した。
これまで盛んに研究されてきたように草莽崛起には<尊王攘夷>や<勤王倒幕>のような文献に残る<顕>の歴史もあるが、<冥>の世界もあるに違いない。草莽崛起の上り坂では神仏に依らずして命は使えない。草莽崛起の下り坂には一挙に自己保身が芽生える。これもまた<冥>の世界だ。<顕>の世界の言葉にしなくとも、黒船によって日本の<冥>、祖先の神聖がインドや支那のように侵され異人によって穢れると感じていた。しかしその危機が一旦去ると何事もなかったかのように世間は均衡を求めて地位を漁り始めるが、威勢のいいスローガンはもはやなくヒソヒソと運動するのだ。日本人はいい時も悪い時も世間の<冥>の空気に支配されている。
平和な世のように世間を探知してキョロキョロしている人生にベンチャービジネスに就職するなどという選択肢はまず生じない。個人が全く空洞化し世間と同化する生き方は非常に楽な生き方ということに気づいてしまったからだ。それもよかろう。ありがたいことに奇跡とも言える70年の平和が無言で教えてくれた生き方だ。江戸時代の末も似たようなものだった。西鶴の活写した好色物には草莽崛起の片鱗もない。それは今に似る。
現在の日本は感覚としては平和であっても、サイバースペースを含めた世間は妙なルサンチマンの罵詈雑言の投げつけあいになっている。決してこの先も平和気分ではいられないという識者の意見もある。
<顕><冥>の法則によれば、冥は必ず日本の情を千年飛び越えて揺り戻す。
しかし日本には未だ世間には<冥>がかけている。だから命を賭ける思いは識者当事者にもない。草莽崛起に必要な金も名誉も命もいらぬ人間はきっと冥の導きに強い感受性をもつ素直な心の人物なのだろう。
草莽のベンチャービジネスには強烈な個が必要であって、もちつもたれつの世間主義に寄りかかっていては行動できない。駆け抜けても命を取られることはないが、尊敬されることもない。
世間と個人の折り合いは、キョロキョロして決めるのがほとんどの普通の人の行動基準だろう。なにせミクロな世間は一つとは限らないのだから、自分の所属世間がどこなのかというところから人生が始まる。この原始的な精神があれば日本で十分暮らしてゆける。
その代わり正義の貫徹というものは平和な日本の世間に全く馴染まない。正義は忘れること、貸し借りや仕事の公正は守ること、仲間は売らないこと。義理は何処の身内かどうかを表示する行為だから、絶対に欠かしてはならない。以上を守るだけでも大変な苦労だが、その上にゴマをすって、勝ちを譲る腹芸までとなるとやり過ぎにも見えるが、これが世間というもの。庶民の最大限の世間への抵抗は出奔か自ら身を引く自己犠牲というものでしかなかった(人情馬鹿物語:川口松太郎)。
正義漢の坊っちゃんにとっては赤シャツや野太鼓は俗物の極み、でもそれは小説の中の世界のこと、現実は自己保身を正当化する俗物だらけの状態(情実と建前、応酬とゴマスリ)を肯定しなければ世間は成り立たない。坊っちゃんも世間を選択して丸くなることを強いられる。
しかし日本人に時々燃え上がる民族的草莽崛起は何だろう。世間が階層と地域や信教によって分散共存している平和状態は時に突然終わる。外国や経済に追い詰められて次第に一点に集中した世間しか存在できなくなる空気が草莽崛起の前提となる<時代>なのかもしれない。おそらく大義名分も必要だがそれ以上に目に見えないエネルギーが民族的草莽崛起の主人公なのだろう。
他方で維新が終わると、あたかも草莽崛起がなかったかのようにケロッとして賂(まいない)利権や華美な屋敷を抱える俗物政治家に還る、尾去沢銅山事件など、志士たちが多くいた。また大東亜戦争が終わるとケロッと自由主義礼賛をする教師たちに恥というものがなかった。この人達は一点に収縮した世間がはじけ飛んで元の無数の世間に戻るや、正義より、戦前戦後の人格の一貫より、事実の告発より、世間を選び行動し出した。
これまで盛んに研究されてきたように草莽崛起には<尊王攘夷>や<勤王倒幕>のような文献に残る<顕>の歴史もあるが、<冥>の世界もあるに違いない。草莽崛起の上り坂では神仏に依らずして命は使えない。草莽崛起の下り坂には一挙に自己保身が芽生える。これもまた<冥>の世界だ。<顕>の世界の言葉にしなくとも、黒船によって日本の<冥>、祖先の神聖がインドや支那のように侵され異人によって穢れると感じていた。しかしその危機が一旦去ると何事もなかったかのように世間は均衡を求めて地位を漁り始めるが、威勢のいいスローガンはもはやなくヒソヒソと運動するのだ。日本人はいい時も悪い時も世間の<冥>の空気に支配されている。
平和な世のように世間を探知してキョロキョロしている人生にベンチャービジネスに就職するなどという選択肢はまず生じない。個人が全く空洞化し世間と同化する生き方は非常に楽な生き方ということに気づいてしまったからだ。それもよかろう。ありがたいことに奇跡とも言える70年の平和が無言で教えてくれた生き方だ。江戸時代の末も似たようなものだった。西鶴の活写した好色物には草莽崛起の片鱗もない。それは今に似る。
現在の日本は感覚としては平和であっても、サイバースペースを含めた世間は妙なルサンチマンの罵詈雑言の投げつけあいになっている。決してこの先も平和気分ではいられないという識者の意見もある。
<顕><冥>の法則によれば、冥は必ず日本の情を千年飛び越えて揺り戻す。
しかし日本には未だ世間には<冥>がかけている。だから命を賭ける思いは識者当事者にもない。草莽崛起に必要な金も名誉も命もいらぬ人間はきっと冥の導きに強い感受性をもつ素直な心の人物なのだろう。
草莽のベンチャービジネスには強烈な個が必要であって、もちつもたれつの世間主義に寄りかかっていては行動できない。駆け抜けても命を取られることはないが、尊敬されることもない。