昨日は珍しく水戸に所用があり出かけた。しばらく行かぬ間に茨城町東ICが便利になっていた。友部JCTができて一度も使ってなかったのだから干支が一回りしている。昔の家あたりはすっかり変わり、吉沢車庫も見つけられず、この辺りの地名さえ忘れてしまった。戊午の密勅の歴史の舞台長岡には巨大なショッピングモールができたらしい。水戸市笠原のあたりは異常に巨大な施設が多い。水戸の見栄はり体質だけは変わらないようだ。
戊午の密勅 水戸藩への影響
藩創設以来、水戸藩では藩主に忠実な改革派(尊皇攘夷派)と、幕府との関係を重視する保守門閥派(諸生党)との対立が激しかったが、密勅への対応を巡り、改革派の中でも、密勅の通りに勅書を諸藩に廻達すべきとする、家老武田耕雲斎を中心とした尊攘激派(後の天狗党)と、勅書は朝廷又は幕府に返納すべきとする、會澤正志斎を中心とした尊攘鎮派とに分裂して激しく対立し、三巴の混沌とした藩状のまま明治維新を迎えることとなる。
幕府は水戸藩に対し勅書の諸藩への回送取り止めを命じた上、勅書そのものの朝廷への返納を求めたが、勅書返納に反対する激派の藩士や領民は安政5年9月と安政6年5月に小金宿に集結し、勅書の返納を阻止するため気勢を挙げ、これに対して慶篤は家老大場弥右衛門、郡奉行金子孫二郎らを派遣して鎮撫に努めたが、抑え切れる状況ではなかった。
安政6年8月27日(1859年9月23日)、幕府は、密勅は天皇の意思ではなく水戸藩の陰謀とし、密勅降下に関わったとして家老安嶋帯刀を切腹、奥祐筆茅根伊予之介、京都留守居役鵜飼吉左衛門を斬首、京都留守居役助役同幸吉を獄門、勘定奉行鮎沢伊太夫を遠島とし、斉昭は水戸での永蟄居、慶篤は差控とした(安政の大獄)。
同年12月に幕府が朝廷に働きかけ、水戸藩に対し勅書を幕府に返納する事を命じ、水戸藩内では返納論が主流となっていたが、激派は水戸街道の長岡宿に集結し街道を封鎖(長岡屯集)、勅書の返納を実力阻止しようとした。勅書は歴代藩主の廟内で厳重に保管され、翌安政7年2月に勅書返納が正式に決まるが、城下で激派と鎮派が斬り合いとなる騒ぎが起こったり、斎藤留次郎が返納反対を訴えて水戸城内で切腹するなどの混乱があったりして返納は延期となった。長岡宿に屯集する激派に対して武力鎮圧する動きが起こると、激派の一部は脱藩して江戸へ向かい、安政7年3月3日(1860年3月24日)に井伊大老を襲撃することとなる(桜田門外の変)。
変後の混乱により返納問題はうやむやとなり、勅書は水戸に留められた。

勅諚全文
先般墨夷假條約無餘儀無次第ニ而、於神奈川調印、使節へ被渡候儀、猶又委細閒部下總守上京被及言上之趣候得共、先達而敕答諸大名衆儀被聞食度被仰出候詮茂無之、誠ニ以テ皇國重大ノ儀、調印之後言上、大樹公叡慮御伺之御趣意モ不相立、尤敕答之御次第ニ相背輕卒之取計、大樹公賢明之處、有司心得如何ト御不審被思召候。右樣之次第ニ而者、蠻夷狄之儀者、暫差置方、今御國內之治亂如何ト更ニ深被惱叡慮候。何卒公武御實情ヲ被盡、御合體永久安全之樣ニト、偏被思召候。三家或大老上京被仰出候處、水戸尾張兩家愼中之趣被聞食、且又其餘宗室之向ニモ同樣御沙汰之由モ被聞食候。右者何等之罪狀ニ候哉。難被計候得共、柳營羽翼之面々、當今外夷追々入津不容易之時節、既ニ人心之歸向ニモ可相拘旁被惱宸襟候。兼而三家以下諸大名衆議被聞食度被仰出候旨、全永世安全公武御合体ニ而、被安叡慮候樣被思召候儀、外虜計之儀ニモ無之、內憂有之候而者、殊更深被惱宸襟候。彼是國家之大事ニ候閒、大老閣老其他三家三卿家門列藩外樣譜代共一同群議評定有之、誠忠之心ヲ以テ、得ト御正シ、國内治平、公武御合体、彌御長久之樣、德川御家ヲ扶助有之內ヲ整、外夷之侮ヲ不受樣ニト被思召候。早々可致商議敕諚之事。
安政五戊午年八月八日
近衞左大臣
鷹司右大臣
一條内大臣
三條前内大臣
二條大納言
水戸中納言
廣橋大納言
萬里小路大納言
【水戸藩へ別紙 添書】
勅諚ノ趣 仰出サレ候 右ハ国家ノ大事ハ勿論 徳川家ヲ御扶助二 思食サレ候間 會議之有リ 御安全之様 勘考 有可キ旨 以之出格 思食仰出サレ候間 猶同列之方々、三卿家門之衆以上隠居ニ至迄、列藩一同ニモ 御趣意相心得ラレ候様、向々ヘモ伝達之有可ク 仰出され候以上
※参考「戊午秘記」(東京大学史料編纂所データベース)、大森金五郎「大日本全史 下巻」(冨山房、1922年発行)
長岡原刑場跡地(水戸市吉沢町)と思われる場所には、石を並べた方形の区画に、卒塔婆が建てられているのみである。区画の後方の草藪の中には石塔の一部などが無造作に散乱していた。なお、かつてこの地には「弔魂之碑」が建てられていたが、現在は蓮乗寺に移されている。 | ||
明治2年(1869)年4月3日:「水戸藩」が、“水戸諸生党勢の市川弘美(三左衛門、善次郎、主計とも)”を、「叛逆無道重々不行届き至極大胆の致し方に付、後昆の誡として、上下御町引き渡し、生き晒らしの上、長岡原に於て、逆磔(さかさはりつけ)に行なふ者也」と断じて、「処刑」するとともに、“諸生党員の佐藤万衛門、照沼泰助、松葉介之允、大髙熊之介ら4名”も、同所において「磔刑」に処す。 尚、「水戸藩」は、“生粋の諸生党員ではなかったものの、当時の諸生派と目されて仙台で捕縛されていた吉野英臣、内藤三之介、吉野金之助、本郷金衛門、高倉平三郎ら5名”をも、「斬首梟首刑」に処した。 当時の市川弘美に下された「逆磔」という刑罰は、水戸藩政史上、極めて稀なものであったかと。この時の、当時の逆磔刑の様子については、“明治新聞からの抜書き”とされる『水戸藩紀事』には、「水(戸)藩元家老・市川三左衛門(は)昨辰年(に)脱走して、奥州より (中略)・・・先頃、東京青山辺(りの)剣術師範人の家に潜伏せしを、水戸神勢隊に召捕(えられ)、水戸表に引(か)れしが、四月上旬(に)水戸長岡原に於て、逆磔に掛けられたり、尤(もっとも)逆磔と云ふは、生(いき)なから逆さまに致し、晒し置(く)其上にて突殺(つきころ)し候由(そうろうよし)。元来、人を逆さまに致し置(く)時ハ、忽(たちま)ち死する故(ゆえ)、額(ひたい)に穴を明け血を出し候得ハ、生き居(り)候由ニて、(市川)三左衛門の額を、錐(きり)にても、みぬき(=視抜き)穴を明け、其党数人残らず刑せらるゝを見せ、其上にて突殺候事のよし」と、その悲惨な死を描写しており、また、「長岡原の刑場へ(の)見物人(が)山の如く(に)詰め掛け尺寸の地をも余さず、並木の両側へは飴菓子などを売る商人等(が)余多(あまたの)見世(みせ:=店)を張り、其状(は)恰(あたか)も祭礼場の如し、刑場へ斯(か)く大勢出掛けしは、前代未聞と人々語り合へり」と伝える本もあります。 尚、市川弘美の処刑が執行される寸前、つまりは、“その死に際(ぎわ)”に、「勝負は、これから!!!」と、“市川が叫んだ”、とする話もあります。いずれにしても、幕末期から明治当初期に掛けて、時の幕府や新政府軍を相手とし、水戸藩内における抗争などを、その最期の時まで戦い抜いた市川は万感の思いを込めて、次の辞世を詠んだのでしょう。 「君ゆえに すつる命はおしまねど 忠が不忠になるぞ悲しき」 |