今日は久しぶりに出勤しました。しばらく学校に行かなかったら、机の上に書類がたまってました。外部から来た文書ばかりだったので、目をとおして、いろいろ処理を済ませて、パソコンのメールを確認。県から支給されたパソコンなので、久しぶりに開いたらさっそくプログラム更新がされました。生徒が提出した読書感想文の中から良いものを2つ選ぶ作業を午後ずっとやってました。一つ選んだあと、もう一つがなかなか選びたいのがなくて、頭がウニ状態になったので、5時過ぎに学校を出ました。明日と明後日は実力テスト。明日はテストの後、私たちは職員会議です。授業は月曜日からです。大雨の後、ちょっと涼しくなったので、職員室はエアコンなしでした。耐えられないほどじゃなかったけど、蒸し暑かったです。職員室は風通しが悪い造りなんです。月曜日はもう9月2日なんですよね。早く涼しくなりますように。虫の音が外で盛んに聞こえます。
書き忘れましたが、昨日ホテルに行く前にもう1カ所、会津藩校の日新館に立ち寄りました。日新館は、上級武士の子弟が10歳くらいになると通った武士の学校で、武士としての教養を全般的に教えたところです。学問はもちろん、行儀作法や、武術、水練もあったそうで、庭に水泳を行ったという池も復元してありました。教科書は漢文でかなり難しそうでした。昔は、もっとお城の近くにあったようですが、移築復元された建物は、市の中央部からかなり離れたところにありました。NHKの「八重の桜」でも紹介されましたが、十の掟というのが大きく書いてありました。十の掟は、ホテルの露天風呂にも書いてありましたが、それを幼い頃から教え込まれ、会津武士の基本精神が形作られたのかもしれません。
話は変わりますが、福島県の天気予報では県内を3つに分けて、浜通り、中通り、会津と呼んでいました。静岡県では、西部、中部、東部、伊豆地方という分け方をし、長野県では、南部、中部、北部と分けて予報をします。というわけで、8月22日は会津地方の中心、会津若松市内を多く見ました。最後に、悠ゆ亭のご主人がお薦めだった郊外の大内宿にも行きました。
朝、最初に行ったのは、藩主、松平家の墓所でした。標識によれば、遠くないと思ったのですが、かなり山の中にあり、汗をぬぐいながら石段をたくさん登りました。かなり歩きました。歴代藩主のお墓がいくつかあり、最後に九代藩主、松平容保さんのお墓を拝むことができたので、よかったと思いました。
次に行ったのは、武家屋敷です。ここは会津藩家老を務めた西郷頼母さんの屋敷が復元されていました。すごく広いお屋敷で、部屋数は36もあったそうです。「八重の桜」にもあったように、戊辰戦争で新政府軍に攻め込まれた時、足手まといにならないように、屋敷内で家族の女性たち全員が自刃をしたという悲劇の一家のお屋敷です。西郷頼母さん自身は、明治になっても生きて、長男に先立たれた後、養子をもらい、その養子の西郷四郎さんは、成長して柔道家になり、姿三四郎のモデルになった人だそうです。
これは、武家屋敷の正面玄関です。
次は、有名な白虎隊のお墓がある飯盛山に行きました。山頂まではかなり長い石段で、暑い中、たくさんの石段を登るのはしんどいので、動く歩道に乗っていきました。一番上まで行くと、白虎隊士の19人のお墓と、それ以外にあの戊辰戦争で亡くなった会津武士たちのお墓もありました。お線香をお供えして、ご冥福を祈りました。白虎隊の中でただ一人、蘇生されて老人になるまで生きた飯沼貞吉さんのお墓も少し離れたところにあり、そこも拝みました。鶴ヶ城を飯盛山から見て、陥落間違いなしと判断し、自刃した場所には、お城を遠くから眺める若い隊士の石像が建ってました。
次に行ったのは、裏にあった「さざえ堂」という建物でした。確かに巻貝のさざえのような形の建物で、内部の渦巻き状の螺旋の廊下を登り、下りも行きの通路と違う廊下を降りるという不思議な建物でした。インターネットでは人気NO1の観光スポットになっていました。これがさざえ堂です。
内部はこんな感じ。
次は会津若松市民の強い要望で復元されたという鶴ヶ城に行きました。きれいなお城でした。内部は一番下の塩蔵だった部分以外は昔の面影を残すものはなく、普通の階段のある博物館だったので、ちょっと残念でした。
暑い日だったので、喉が渇き、天守閣まで登った後にお茶室を見学し、冷たいお抹茶とお菓子で一服しました。
最後に足を延ばした大内宿は、茅葺屋根の民家がいくつも残る保存地区でした。その多くが土産物屋や、食堂、中には民宿などを営んでいました。あの建物を維持するのは大変でしょうが、なかなか風情のあるところでした。私は、ここで、会津塗の蓋付きのマグカップと、蓄音機の形をした小さな鉛筆けずりを買いました。夫は、小さなペアの起き上がり小法師とでんでん太鼓と木刀を買いました。木刀なんて危ないから買わないでほしかったんだけど・・・男の人は変なものをほしがるのですね。
東山温泉の新滝に着いたのは、5時40分くらいでした。同じ宿に二泊して良かったと思いました。
話は変わりますが、福島県の天気予報では県内を3つに分けて、浜通り、中通り、会津と呼んでいました。静岡県では、西部、中部、東部、伊豆地方という分け方をし、長野県では、南部、中部、北部と分けて予報をします。というわけで、8月22日は会津地方の中心、会津若松市内を多く見ました。最後に、悠ゆ亭のご主人がお薦めだった郊外の大内宿にも行きました。
朝、最初に行ったのは、藩主、松平家の墓所でした。標識によれば、遠くないと思ったのですが、かなり山の中にあり、汗をぬぐいながら石段をたくさん登りました。かなり歩きました。歴代藩主のお墓がいくつかあり、最後に九代藩主、松平容保さんのお墓を拝むことができたので、よかったと思いました。
次に行ったのは、武家屋敷です。ここは会津藩家老を務めた西郷頼母さんの屋敷が復元されていました。すごく広いお屋敷で、部屋数は36もあったそうです。「八重の桜」にもあったように、戊辰戦争で新政府軍に攻め込まれた時、足手まといにならないように、屋敷内で家族の女性たち全員が自刃をしたという悲劇の一家のお屋敷です。西郷頼母さん自身は、明治になっても生きて、長男に先立たれた後、養子をもらい、その養子の西郷四郎さんは、成長して柔道家になり、姿三四郎のモデルになった人だそうです。
これは、武家屋敷の正面玄関です。
次は、有名な白虎隊のお墓がある飯盛山に行きました。山頂まではかなり長い石段で、暑い中、たくさんの石段を登るのはしんどいので、動く歩道に乗っていきました。一番上まで行くと、白虎隊士の19人のお墓と、それ以外にあの戊辰戦争で亡くなった会津武士たちのお墓もありました。お線香をお供えして、ご冥福を祈りました。白虎隊の中でただ一人、蘇生されて老人になるまで生きた飯沼貞吉さんのお墓も少し離れたところにあり、そこも拝みました。鶴ヶ城を飯盛山から見て、陥落間違いなしと判断し、自刃した場所には、お城を遠くから眺める若い隊士の石像が建ってました。
次に行ったのは、裏にあった「さざえ堂」という建物でした。確かに巻貝のさざえのような形の建物で、内部の渦巻き状の螺旋の廊下を登り、下りも行きの通路と違う廊下を降りるという不思議な建物でした。インターネットでは人気NO1の観光スポットになっていました。これがさざえ堂です。
内部はこんな感じ。
次は会津若松市民の強い要望で復元されたという鶴ヶ城に行きました。きれいなお城でした。内部は一番下の塩蔵だった部分以外は昔の面影を残すものはなく、普通の階段のある博物館だったので、ちょっと残念でした。
暑い日だったので、喉が渇き、天守閣まで登った後にお茶室を見学し、冷たいお抹茶とお菓子で一服しました。
最後に足を延ばした大内宿は、茅葺屋根の民家がいくつも残る保存地区でした。その多くが土産物屋や、食堂、中には民宿などを営んでいました。あの建物を維持するのは大変でしょうが、なかなか風情のあるところでした。私は、ここで、会津塗の蓋付きのマグカップと、蓄音機の形をした小さな鉛筆けずりを買いました。夫は、小さなペアの起き上がり小法師とでんでん太鼓と木刀を買いました。木刀なんて危ないから買わないでほしかったんだけど・・・男の人は変なものをほしがるのですね。
東山温泉の新滝に着いたのは、5時40分くらいでした。同じ宿に二泊して良かったと思いました。