昨日は、久しぶりに静岡のサールナートホールへ「6才の僕が大人になるまで」を見に行きました。6才の少年が大学生になるまで12年間、追いかけて撮影した映画で、家族役を演じた俳優4人はずっと同じだったので、ほんとの家族の変遷を見てるような感じがしました。主人公のメイソンには、ほとんど素人に近い少年を起用したんだそうです。ちょっと軽薄な感じの父親役はイーサン・ホークが熱演。久しぶりに見たので、彼だとわからなかったんですが、ハンサムでした。サールナートホールは、単館系の映画を上映するホールで、私も昨日、初めて会員になりました。サールナートで良く見るつもりなら、会員になったほうが絶対お得です。しかも60才になったのでシニア会員料金でした。招待券も3枚もらい、昨日はさっそくその招待券を使ってきました。平日だけでなく、土日も会員シニアは1000円で映画を見れます。年をとるといいこともあるわね。(^^ゞこれからは、時間のある身だし、近場の藤枝VIVIだけじゃなく、サールナートで、しっとりした映画を見たいと思います。そういえば、もう一つ、ベイマックスも近いうちに観たいけど、多分上映期間が長そうだから正月明けでいいかな。ベイマックスなら多くの映画館で、上映していそうです。映画を見た後は、パンケーキの店、VEGEでおやつを食べて帰ってきました。我が家は夫がバターを使った洋菓子全般がだめなんで、私だけクリスマスケーキの代わりに食べてきました。パンケーキの枚数を減らせたので、1枚少なくしてもらいました。すると100円引きになりました。生クリームが一杯。キイチゴのジャムもたっぷり。溶かしたチョコレートをかけて美味しくいただきました。
今月22日に誕生日を迎え、60歳になりました。子供たちや夫からプレゼントを贈られました。夫からは、裏がグレーでチェックのリバーシブルの黒いコートを、子供たちからは私がリクエストした白い還暦テディベアと、プリザーブドフラワーをもらいました。私の代わりにくまちゃんに赤いちゃんちゃんこを着てもらいました。
そして、今日はクリスマスイブ。誕生日とクリスマスがすごく近いので、子供の頃、いつもお祝いが一緒にされてつまらないと思っていました。今年の22日は新月と重なり縁起の良い冬至だったそうです。クリスマスを恋人と過ごす人は意外に少ないようで、家族や友達と過ごしたり、一人で過ごす「クリボッチ」が多いらしいです。仕事の人だっていますもんね。クリボッチであっても、いつもとちょっと違う日としてクリスマスを楽しんでいたらいいなぁって思います。今宵、すべての人に幸せな夜がおとづれますように・・・
そして、今日はクリスマスイブ。誕生日とクリスマスがすごく近いので、子供の頃、いつもお祝いが一緒にされてつまらないと思っていました。今年の22日は新月と重なり縁起の良い冬至だったそうです。クリスマスを恋人と過ごす人は意外に少ないようで、家族や友達と過ごしたり、一人で過ごす「クリボッチ」が多いらしいです。仕事の人だっていますもんね。クリボッチであっても、いつもとちょっと違う日としてクリスマスを楽しんでいたらいいなぁって思います。今宵、すべての人に幸せな夜がおとづれますように・・・
あわただしかった衆議院選挙が昨日終わり、また静かな日常に戻った感じ。結果は予想通り、自民党の圧勝でしたね。そうなると思ってました。いろいろ心配な法律や政策を提唱しても、野党は頼りない。特に一度政権を担った民主党には失望したし、結局こうなるかなぁって思います。戦争はもう2度とゴメンだし、福島の原子力発電所の状況だって想定外のことばかりで不安が一杯。声高に言われていないけど、放射能汚染だってどうなるか。本当に収束できるのかわからない状況で、また各地の原子力発電稼働を推進する政権が発足。不安定な非正規雇用が増えてるし、格差は広がるばかり。このままでいいのだろうかと思うのに、結局、政権は変わらない。平和で皆が幸せになれる安全な社会をみんな願っていると思うのですが。
12月4日(木)。最終日の今日は長崎空港18時50分発の飛行機に間に合うよう観光しました。16時までにJR長崎駅に戻り、高速バスで長崎空港に向かえば大丈夫。
朝食はホテルのレストランで和定食を食べました。清風の朝食は味噌汁がこのように下から燃料で温められる鍋で出され美味しかったです。
今日も1日乗車券を買い、行動しました。
朝、雨が降っていたので、午前中は雨でも大丈夫な長崎歴史文化博物館に行きました。かつての長崎奉行所の外観を復元した大きく、とても立派な博物館でした。長崎奉行所の一部を復元した座敷や御白洲の庭などもあり、交易品の輸入品に値段をつけるコーナーなど体験型の展示があり、楽しかったです。長崎の多彩な歴史と文化を知ることができました。午前中はずっとそこで過ごしました。2階で、サザエさん展をやっていたのでそれも見ました。あさひが丘分譲権利証を買って、一軒の小さな木の家に色塗りをして、それを町内に置きました。私たちの住所は8丁目5番地でした。長崎歴史文化博物館の売店で、私は鼈甲のペンダントを買いました。それが今回買った一番高価なお土産です。(^^)v。夫は博物館の近くにあった鼈甲専門店で、鼈甲の飾りがついたループタイを買いました。どちらも、外出時にさりげないおしゃれ感が出るアクセサリーです。鼈甲は長崎の名産品らしく、街で鼈甲屋さんをよく見かけました。
電車の中にも、歴史文化博物館にも、中華街にも多くの中学生らしい修学旅行生がいました。12月は修学旅行シーズンのようです。お昼は中華街の西湖という店で長崎チャンポンを食べました。肉だけでなく、牡蠣やエビなども入った美味しいチャンポンでした。
昼食後、歩いて唐人屋敷跡に行きました。江戸時代には館内町全体に唐人屋敷の長屋が建ち並び、2000人以上の中国人が暮らしていたそうですが、今は4つの中国式の御堂が残るだけで、普通の街並みになっていました。土神堂、天后堂、観音堂、福建会館は四角形の四隅を形作るような位置にありました。これは天后堂です。
最後に長崎市民からおすわさんと呼ばれ親しまれているという諏訪神社に行きました。神社の秋の例大祭があの盛大な長崎くんちです。普段の諏訪神社は、参詣者はちらほらで、静かでした。とても長い石段を登ったところに本殿がありました。
我が家へのお土産は松翁堂という老舗のカステラを買いました。やっぱりカステラは買わなきゃね。カステラは生もので日持ちがしないので、息子たちには、大浦天主堂で天主堂をかたどった鍋敷きと、長崎の皿うどんを買いました。諏訪神社からは、また電車でJR長崎駅に戻り、高速バスで長崎空港へ。空港内の寿司屋で夕飯をすませ、無事に全日空の飛行機に乗って帰ってきました。ホテルのバス運転手さんに教えていただき、福山雅治さんの実家も車窓からチラッと見れたし、楽しい旅行でした。フォトチャンネルも作ったので、ご覧ください。
朝食はホテルのレストランで和定食を食べました。清風の朝食は味噌汁がこのように下から燃料で温められる鍋で出され美味しかったです。
今日も1日乗車券を買い、行動しました。
朝、雨が降っていたので、午前中は雨でも大丈夫な長崎歴史文化博物館に行きました。かつての長崎奉行所の外観を復元した大きく、とても立派な博物館でした。長崎奉行所の一部を復元した座敷や御白洲の庭などもあり、交易品の輸入品に値段をつけるコーナーなど体験型の展示があり、楽しかったです。長崎の多彩な歴史と文化を知ることができました。午前中はずっとそこで過ごしました。2階で、サザエさん展をやっていたのでそれも見ました。あさひが丘分譲権利証を買って、一軒の小さな木の家に色塗りをして、それを町内に置きました。私たちの住所は8丁目5番地でした。長崎歴史文化博物館の売店で、私は鼈甲のペンダントを買いました。それが今回買った一番高価なお土産です。(^^)v。夫は博物館の近くにあった鼈甲専門店で、鼈甲の飾りがついたループタイを買いました。どちらも、外出時にさりげないおしゃれ感が出るアクセサリーです。鼈甲は長崎の名産品らしく、街で鼈甲屋さんをよく見かけました。
電車の中にも、歴史文化博物館にも、中華街にも多くの中学生らしい修学旅行生がいました。12月は修学旅行シーズンのようです。お昼は中華街の西湖という店で長崎チャンポンを食べました。肉だけでなく、牡蠣やエビなども入った美味しいチャンポンでした。
昼食後、歩いて唐人屋敷跡に行きました。江戸時代には館内町全体に唐人屋敷の長屋が建ち並び、2000人以上の中国人が暮らしていたそうですが、今は4つの中国式の御堂が残るだけで、普通の街並みになっていました。土神堂、天后堂、観音堂、福建会館は四角形の四隅を形作るような位置にありました。これは天后堂です。
最後に長崎市民からおすわさんと呼ばれ親しまれているという諏訪神社に行きました。神社の秋の例大祭があの盛大な長崎くんちです。普段の諏訪神社は、参詣者はちらほらで、静かでした。とても長い石段を登ったところに本殿がありました。
我が家へのお土産は松翁堂という老舗のカステラを買いました。やっぱりカステラは買わなきゃね。カステラは生もので日持ちがしないので、息子たちには、大浦天主堂で天主堂をかたどった鍋敷きと、長崎の皿うどんを買いました。諏訪神社からは、また電車でJR長崎駅に戻り、高速バスで長崎空港へ。空港内の寿司屋で夕飯をすませ、無事に全日空の飛行機に乗って帰ってきました。ホテルのバス運転手さんに教えていただき、福山雅治さんの実家も車窓からチラッと見れたし、楽しい旅行でした。フォトチャンネルも作ったので、ご覧ください。
12月3日(水)。朝の部屋からの眺めです。まだ灯りが少し灯っています。
長崎の街は三方を山に囲まれ、山の上の方まで家やホテルがぎっしりと建っているので、夜になると星のようにきらめく無数の灯りが山の上まで灯りました。三日目の今日は、平和公園と原爆資料館に最初に行きました。駅で路面電車の1日乗車券を買い、電停、松山町で降りてすぐのところに平和公園はありました。最初に見たのが平和の泉。原爆投下後、多くの人が水を求めて苦しみながら亡くなったことから、犠牲者の霊を慰めるために作られた噴水です。
平和公園は修学旅行生の団体が途切れなくおとづれていて、平和の泉の周りにも人が一杯だったので、1枚しか写真が撮れませんでした。更に歩くと公園の奥に平和祈念像が高くそびえていました。平和祈念像は南島原市出身の彫刻家、北村西望さんによる作品で、昭和30年に完成したそうです。空をさす右手は原爆の脅威を、水平に伸ばした左手は世界平和を表し、犠牲者の冥福を祈っているのだそうです。祈念像の両サイドに折鶴の塔があり、千羽鶴がたくさん下がっていました。平和祈念像に花や水が供えられていました。
そして公園入口に向かう通路に、33回忌の昭和52年に犠牲者の冥福を祈るために建てられた「長崎の鐘」がありました。また外国から送られた平和を祈念する像がいくつか公園内にありました。その後、原爆資料館に行きました。原爆が投下された午前11時2分でとまったままの壊れた柱時計や、数々の遺品、熱で溶け、ぐにゃぐにゃにくっついたガラス瓶や、泡を吹いたようにブツブツになった原爆瓦など。生き残った人たちも長い間、原爆症に苦しんだ様子が写真と説明で示されていました。原爆の恐ろしさ、放射線の脅威を思うと、絶対に核戦争をおこしてはならない、核爆弾を使ってはならないと強く思いました。原爆落下中心地には、黒い御影石の石碑がありました。そのそばに原爆で壊れた浦上天主堂の一部が残されていました。
その次に浦上天主堂に行きました。レンガ造りの天主堂は原爆で全壊し、昭和39年に再建され、昭和55年に改装されたものです。
教会内部は写真撮影禁止。脱帽して静粛に見学しました。教会を見た後、フルーツいわながでイチゴのジュースを飲んで休憩。その後、永井隆記念館に行きました。永井博士は放射線の研究者で放射線による慢性白血病にかかり、余命3年と診断された矢先、原爆で被爆し、家も奥さんも亡くし、2人の幼子と残されました。病を押して患者の治療にあたり、原爆症のために寝たきりになった後も、自分のできることをと多くの著作を残した人です。晩年、2人の幼子と暮らした如己堂(己の如く人を愛すという意味)という小さな家も見学しました。
午後は、亀山社中記念館に行きました。晩年に坂本龍馬が設立した貿易会社「亀山社中」の遺構といわれる場所を長崎市が当時に近い形に復元した建物で、ブーツや着物など龍馬ゆかりの品々が座敷を中心に展示されてました。床柱は龍馬がもたれたものと言われています。
亀山社中は電停、大工町で下車し、急な坂道をかなり登ったところにありました。亀山社中は脱藩者の集まりだったので、当時はおそらく山中の隠れ家のようなところではなかったかと思います。
その後、坂道をまた電車通りまで戻り、電停、正覚寺下で降りて、唐寺の崇福寺に行きました。崇福寺は創建が1629年。長崎に在留していた中国の福建省の人(福州人)たちによって建てられたのが始まりだそうです。第一峰門と大雄宝殿は国宝です。本尊は釈迦如来。
たくさん見学していっぱい移動し、体力的に疲れた1日でした。
他の写真はフォトチャンネルをご覧ください。
長崎の街は三方を山に囲まれ、山の上の方まで家やホテルがぎっしりと建っているので、夜になると星のようにきらめく無数の灯りが山の上まで灯りました。三日目の今日は、平和公園と原爆資料館に最初に行きました。駅で路面電車の1日乗車券を買い、電停、松山町で降りてすぐのところに平和公園はありました。最初に見たのが平和の泉。原爆投下後、多くの人が水を求めて苦しみながら亡くなったことから、犠牲者の霊を慰めるために作られた噴水です。
平和公園は修学旅行生の団体が途切れなくおとづれていて、平和の泉の周りにも人が一杯だったので、1枚しか写真が撮れませんでした。更に歩くと公園の奥に平和祈念像が高くそびえていました。平和祈念像は南島原市出身の彫刻家、北村西望さんによる作品で、昭和30年に完成したそうです。空をさす右手は原爆の脅威を、水平に伸ばした左手は世界平和を表し、犠牲者の冥福を祈っているのだそうです。祈念像の両サイドに折鶴の塔があり、千羽鶴がたくさん下がっていました。平和祈念像に花や水が供えられていました。
そして公園入口に向かう通路に、33回忌の昭和52年に犠牲者の冥福を祈るために建てられた「長崎の鐘」がありました。また外国から送られた平和を祈念する像がいくつか公園内にありました。その後、原爆資料館に行きました。原爆が投下された午前11時2分でとまったままの壊れた柱時計や、数々の遺品、熱で溶け、ぐにゃぐにゃにくっついたガラス瓶や、泡を吹いたようにブツブツになった原爆瓦など。生き残った人たちも長い間、原爆症に苦しんだ様子が写真と説明で示されていました。原爆の恐ろしさ、放射線の脅威を思うと、絶対に核戦争をおこしてはならない、核爆弾を使ってはならないと強く思いました。原爆落下中心地には、黒い御影石の石碑がありました。そのそばに原爆で壊れた浦上天主堂の一部が残されていました。
その次に浦上天主堂に行きました。レンガ造りの天主堂は原爆で全壊し、昭和39年に再建され、昭和55年に改装されたものです。
教会内部は写真撮影禁止。脱帽して静粛に見学しました。教会を見た後、フルーツいわながでイチゴのジュースを飲んで休憩。その後、永井隆記念館に行きました。永井博士は放射線の研究者で放射線による慢性白血病にかかり、余命3年と診断された矢先、原爆で被爆し、家も奥さんも亡くし、2人の幼子と残されました。病を押して患者の治療にあたり、原爆症のために寝たきりになった後も、自分のできることをと多くの著作を残した人です。晩年、2人の幼子と暮らした如己堂(己の如く人を愛すという意味)という小さな家も見学しました。
午後は、亀山社中記念館に行きました。晩年に坂本龍馬が設立した貿易会社「亀山社中」の遺構といわれる場所を長崎市が当時に近い形に復元した建物で、ブーツや着物など龍馬ゆかりの品々が座敷を中心に展示されてました。床柱は龍馬がもたれたものと言われています。
亀山社中は電停、大工町で下車し、急な坂道をかなり登ったところにありました。亀山社中は脱藩者の集まりだったので、当時はおそらく山中の隠れ家のようなところではなかったかと思います。
その後、坂道をまた電車通りまで戻り、電停、正覚寺下で降りて、唐寺の崇福寺に行きました。崇福寺は創建が1629年。長崎に在留していた中国の福建省の人(福州人)たちによって建てられたのが始まりだそうです。第一峰門と大雄宝殿は国宝です。本尊は釈迦如来。
たくさん見学していっぱい移動し、体力的に疲れた1日でした。
他の写真はフォトチャンネルをご覧ください。