お盆でしたね。
久々に外に出てまいりました。
外界に触れるとやりたいことがいっぱい出てくるよね。
やっぱり、外の世界との交流がなくなると気持ちが停滞するもんですね。
今回一回風を通してみて改めて感じました。
うさぎ小屋④
1か月が経った。僕は時々授業をサボるようになった。とはいっても、サボって何かをするわけではなく、寝ているかインターネットに興じているか、そんなところだった。ただ、高校生の頃と比べると、散歩をすることが多くなった。色々とやらなければならないことが重なる時期が終わり、改めて自分に与えられた自由な4年間のことを考えると、広大な草原に置き去りにされたような感覚になった。僕はその感覚を紛らわせるために、時々エチル倶楽部に顔を出した。今泉さんと田村さんは終業後の時間帯に決まってやってきた。小嶋さんは常に部室にいた。ちゃんと自分の下宿はあるらしいが、校舎への距離も近く居心地も良いこの場所は、小嶋さんでなくとも油断すれば居着いてしまいそうな吸引力があった。大学という小さな社会の中で、僕のことを認識している人は全体の5%にも満たない。まして、僕という人間を日常の中で思い浮かべる人はほとんど皆無といっていい。そのわずかな繋がりに逃げ込もうとしている僕は、人としてごく自然な状態にあると思う。
ある晴れた日の昼下がり、空きコマの時間帯に入った僕は少しずつ攻撃的になっていく日差しから部室に逃れ込んだ。部室には田村さんと小嶋さんがいた。
「ロシアの小説は慣れるまでが大変だよね」と田村さんが言った。
田村さんと同じく僕もほとんど本など読んだことのない文学部不適合人間だったが、田村さんがロシア文学を専攻しているという話を聞いてからドストエフスキーの『罪と罰』を読んでみた。なぜ罪と罰かといえば、インターネットで気まぐれに検索してみたところそれくらいしか聞いたことのある本がなかったからだ。
「全然登場人物が覚えられなかったんですよね」僕は言った。
「そうなんだよね。みんな急に愛称とかで呼び合い始めるし」田村さんは笑いながら言った。その中にどれほど本気が含まれているのかはよく分からなかったが、ひとまず僕の感じた読みにくさは理解してくれたようだった。
「そう、それに罪と罰はミステリー小説だからさ。人物名に混乱して気を取られてると何が何だか分からなくなってくるんだよ。本当は思想とか宗教のテーマがずっと流れてるのに、事実関係の把握に忙しくてそこまで読み込めない。そして気付いた時にはロージャが地面に接吻してて、『ああ、これがかの有名な』みたいな感じになって物語が終わる」
「まさにそれでした。かといって2回読むにはちょっと分量が重たいというか」
「分かる。まあ、実際2回目って意外にするする読めちゃうから、考えてるほど重たくはないんだけどね」
「そうなんですね。僕、同じ本を2回読んだことなんて一度もないかもしれないです」
「読み方は人それぞれだからね。読んでみようと思っただけでも文学部の素質あると思うよ、僕からすれば。僕だってほとんど本なんか読まないけど、それでも高校の頃に比べれば義務的に読んでてさ。そうすると、かじるどころかちょっと歯形付けた程度にしか読んでないのに、周りの人がもっと読んてないことに気付くんだよね」
「そんなもんですかね」
「そうだよ、ホントに。その分アニメ・漫画・ラノベみたいな方向でみんな物語に触れてるんだね。僕はそっちにも詳しくないから誰とも話ができないんだけど」
「僕もそうです。昨日社会学の先生がアニメを教材に持ってきてびっくりしました」
「教授も授業をキャッチーにしようと必死だからな」小嶋さんが口を開いた。
「まあ、これから社会人になる人がほとんどである以上、社会で多く取沙汰されてることを取り上げた方が学生のためでもあるだろうしね」田村さんが付け足した。
その時不意に、ドアが開く音がして薄暗い部室に光が差した。背後を振り返ると、今泉さんではなく小柄で少し派手なスカートを履いている女子学生が入って来るところだった。
「あれ、珍しいお客さんだね」田村さんが女子学生に声をかけた。
「あれ、新しい部員が増えたんだ」女子学生は、小柄な体格に似合った高めの可愛らしい声で言った。
「この子は猪島君。新入生で文学部」小嶋さんが僕を紹介した。
「はじめまして。猪島といいます」
「はじめまして。曾我です」と曾我さんは小声で挨拶して、小嶋さんの顔を見た。
「何後輩相手に緊張してるんだよ」小嶋さんが曾我さんをからかう。
「だって初対面に先輩も後輩も関係ないし、心の準備が……」最後は消え入るような声で言った。
緊張した曾我さんの声を聞き表情を見ていると、何故か僕までドキドキしてしまいどうしていいか分からなくなってしまった。
「曾我さんは俺と同じ工学部。女子の割合が極めて少ない中一人二役で頑張ってるので、部室に来た時には労ってあげてね」小嶋さんはそう言ってからからと笑った。
一人二役と聞き、僕はこの曾我さんこそが二重人格の先輩なのだと悟った。ただ、二重人格がどういう病気なのか、どの程度まで触れていい話題なのかもよく分からなかったので、とりあえずもう一度挨拶をしてこたつの近くに座りなおした。
「とりあえず飲んだら?」小嶋さんは曾我さんに向かって言いながら立ち上がり、棚からウイスキーの瓶を持って来て手際よく水割りにした。
「うん」曾我さんは小さく頷くと、グラスを受け取って一口飲んだ。遠慮がちにお酒を飲む曾我さんの姿は小動物を連想させた。
「さっきも小嶋が言ったとおり曾我さんは一人二役なんだけど」田村さんはこともなげに言った。「あいにく相方が出てくるのを制御することはできないので、臨機応変に対応してあげてね」
「は、はい。でもどうすればいいんですか?」
「基本的には別の人だと思って接してれば大丈夫。ちょっと最初は違和感があるかもしれないけど」田村さんは言った。
曾我さんはなおも恥ずかしそうな表情のまま水割りを飲んでいる。僕はなんとなく未知のものに対する漠然とした不安を覚えたが、同時にそれは好奇心でもあった。
ふと時計を見ると、既に次の授業の時間帯に突入していた。
「あ、やばい。もうこんな時間だ。曾我さん、よろしくお願いします」僕は一言曾我さんに挨拶をして部室を後にした。新たな部員と出会った僕の心は、はじめて部室に顔を出した時のような新しい気持ちに切り替わっていた。
久々に外に出てまいりました。
外界に触れるとやりたいことがいっぱい出てくるよね。
やっぱり、外の世界との交流がなくなると気持ちが停滞するもんですね。
今回一回風を通してみて改めて感じました。
うさぎ小屋④
1か月が経った。僕は時々授業をサボるようになった。とはいっても、サボって何かをするわけではなく、寝ているかインターネットに興じているか、そんなところだった。ただ、高校生の頃と比べると、散歩をすることが多くなった。色々とやらなければならないことが重なる時期が終わり、改めて自分に与えられた自由な4年間のことを考えると、広大な草原に置き去りにされたような感覚になった。僕はその感覚を紛らわせるために、時々エチル倶楽部に顔を出した。今泉さんと田村さんは終業後の時間帯に決まってやってきた。小嶋さんは常に部室にいた。ちゃんと自分の下宿はあるらしいが、校舎への距離も近く居心地も良いこの場所は、小嶋さんでなくとも油断すれば居着いてしまいそうな吸引力があった。大学という小さな社会の中で、僕のことを認識している人は全体の5%にも満たない。まして、僕という人間を日常の中で思い浮かべる人はほとんど皆無といっていい。そのわずかな繋がりに逃げ込もうとしている僕は、人としてごく自然な状態にあると思う。
ある晴れた日の昼下がり、空きコマの時間帯に入った僕は少しずつ攻撃的になっていく日差しから部室に逃れ込んだ。部室には田村さんと小嶋さんがいた。
「ロシアの小説は慣れるまでが大変だよね」と田村さんが言った。
田村さんと同じく僕もほとんど本など読んだことのない文学部不適合人間だったが、田村さんがロシア文学を専攻しているという話を聞いてからドストエフスキーの『罪と罰』を読んでみた。なぜ罪と罰かといえば、インターネットで気まぐれに検索してみたところそれくらいしか聞いたことのある本がなかったからだ。
「全然登場人物が覚えられなかったんですよね」僕は言った。
「そうなんだよね。みんな急に愛称とかで呼び合い始めるし」田村さんは笑いながら言った。その中にどれほど本気が含まれているのかはよく分からなかったが、ひとまず僕の感じた読みにくさは理解してくれたようだった。
「そう、それに罪と罰はミステリー小説だからさ。人物名に混乱して気を取られてると何が何だか分からなくなってくるんだよ。本当は思想とか宗教のテーマがずっと流れてるのに、事実関係の把握に忙しくてそこまで読み込めない。そして気付いた時にはロージャが地面に接吻してて、『ああ、これがかの有名な』みたいな感じになって物語が終わる」
「まさにそれでした。かといって2回読むにはちょっと分量が重たいというか」
「分かる。まあ、実際2回目って意外にするする読めちゃうから、考えてるほど重たくはないんだけどね」
「そうなんですね。僕、同じ本を2回読んだことなんて一度もないかもしれないです」
「読み方は人それぞれだからね。読んでみようと思っただけでも文学部の素質あると思うよ、僕からすれば。僕だってほとんど本なんか読まないけど、それでも高校の頃に比べれば義務的に読んでてさ。そうすると、かじるどころかちょっと歯形付けた程度にしか読んでないのに、周りの人がもっと読んてないことに気付くんだよね」
「そんなもんですかね」
「そうだよ、ホントに。その分アニメ・漫画・ラノベみたいな方向でみんな物語に触れてるんだね。僕はそっちにも詳しくないから誰とも話ができないんだけど」
「僕もそうです。昨日社会学の先生がアニメを教材に持ってきてびっくりしました」
「教授も授業をキャッチーにしようと必死だからな」小嶋さんが口を開いた。
「まあ、これから社会人になる人がほとんどである以上、社会で多く取沙汰されてることを取り上げた方が学生のためでもあるだろうしね」田村さんが付け足した。
その時不意に、ドアが開く音がして薄暗い部室に光が差した。背後を振り返ると、今泉さんではなく小柄で少し派手なスカートを履いている女子学生が入って来るところだった。
「あれ、珍しいお客さんだね」田村さんが女子学生に声をかけた。
「あれ、新しい部員が増えたんだ」女子学生は、小柄な体格に似合った高めの可愛らしい声で言った。
「この子は猪島君。新入生で文学部」小嶋さんが僕を紹介した。
「はじめまして。猪島といいます」
「はじめまして。曾我です」と曾我さんは小声で挨拶して、小嶋さんの顔を見た。
「何後輩相手に緊張してるんだよ」小嶋さんが曾我さんをからかう。
「だって初対面に先輩も後輩も関係ないし、心の準備が……」最後は消え入るような声で言った。
緊張した曾我さんの声を聞き表情を見ていると、何故か僕までドキドキしてしまいどうしていいか分からなくなってしまった。
「曾我さんは俺と同じ工学部。女子の割合が極めて少ない中一人二役で頑張ってるので、部室に来た時には労ってあげてね」小嶋さんはそう言ってからからと笑った。
一人二役と聞き、僕はこの曾我さんこそが二重人格の先輩なのだと悟った。ただ、二重人格がどういう病気なのか、どの程度まで触れていい話題なのかもよく分からなかったので、とりあえずもう一度挨拶をしてこたつの近くに座りなおした。
「とりあえず飲んだら?」小嶋さんは曾我さんに向かって言いながら立ち上がり、棚からウイスキーの瓶を持って来て手際よく水割りにした。
「うん」曾我さんは小さく頷くと、グラスを受け取って一口飲んだ。遠慮がちにお酒を飲む曾我さんの姿は小動物を連想させた。
「さっきも小嶋が言ったとおり曾我さんは一人二役なんだけど」田村さんはこともなげに言った。「あいにく相方が出てくるのを制御することはできないので、臨機応変に対応してあげてね」
「は、はい。でもどうすればいいんですか?」
「基本的には別の人だと思って接してれば大丈夫。ちょっと最初は違和感があるかもしれないけど」田村さんは言った。
曾我さんはなおも恥ずかしそうな表情のまま水割りを飲んでいる。僕はなんとなく未知のものに対する漠然とした不安を覚えたが、同時にそれは好奇心でもあった。
ふと時計を見ると、既に次の授業の時間帯に突入していた。
「あ、やばい。もうこんな時間だ。曾我さん、よろしくお願いします」僕は一言曾我さんに挨拶をして部室を後にした。新たな部員と出会った僕の心は、はじめて部室に顔を出した時のような新しい気持ちに切り替わっていた。
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