このお寺が私が各地の寺を回ってみようと思ったきっかけのお寺です。
京都の寺を除くと、お寺というのはどうも生きている私たちのためではなく、死んだ人、その身内の人のためだけにあるような気がするのは私だけ?
人が生きていること、過去、将来をみずからに問うことのできる場所としてお寺とはあるのではないか?
そういうと小難しい話になってしまいます。
人が亡くなれば弔う。当然の話です。(いずれお世話になります(^^; )
しかし、それだけか?
要するに葬式の場というだけではないお寺を見てみたい、それだけを言いたかったという話です。
このお寺にはいろいろなものがあります。
まるで宝探しに行くような気分にもなります。
この仏塔の中に入れてもらったことがあります。古いものではなく最近の建築です。
涅槃仏まではいつでも見られるんですが、鍵のかかるいわば”奥の間”があって、そこに入れてもらったのです。
数人の方がいました。皆一様に関係者だったのかもしれません。すると私は闖入者?(可能性大)
宗教には聞かせるという要素があると思います。
ミサ曲などですが、仏教にも声明(しょうみょう)という”コーラス”があります。
この建物の中に降り注ぐ光に、まるで声明が降り注いでいるように感じました。
・・・美しく感動的で、キラキラと音が聞こえてきそうな・・・
しかし、ここは一般に公開するような空間ではなさそうでした。以降行っていませんが・・
いつ行っても何かの花があります。
やはり紅葉でしょうか。
黄葉も見事です
冬景色も”すべて終わった””何も無くなった”という感じではなく、新しい芽吹きを待っているという感じです。
ご婦人にも出会いました。(何か話したということではありません。残念)
鐘堂は「開運殿」というそうです。
良い声で鳴ります。
四方には楽天さんがいて、それぞれの楽器を奏でています。
垂水に仏様がいたり
”子地蔵”さんが寝ていたり
鬼も集います
帰りには、境内だか隣地だかわかりませんが、「榧の木」といううどん屋さんがあっておいしいうどんと何故か柿の葉寿司がいただけます。
「榧の木」は、境内にある由緒のある大木からの名前でしょうね?