先週長谷寺にて久々に仏像を拝みました。
仏像とは?
仏の像でしょうが、では、仏とは?
それは悟を啓いた覚者を指し、具体的には「如来」という身分の方だそうです。
仏の像であれば、如来像だけが仏像ということになるのでしょうが、お寺の中の造像は広く仏像でいいんでしょうね。きっとヾ(^^ )
仏教も”平等”を説く宗教ですが、仕組みとしてどうしても封建的構造を持っているようです。
如来はさながら会社組織の「社長」またはそれ以上の絶対的なものでしょう。
その下に如来を目指して修行中の身である「菩提薩埵(ぼだいさった)」、略して「菩薩」という身分があるようです。
菩薩は、修行中の身という性格と半完成品として自ら”ブランド”を発信(信仰を集める)する性格があるようです。
修行の進行度の違いでより仏に近い方から下働きに近い方まであるようです。
さながら会社組織の取締役相当で代表権を持つ取締役からヒラの取締役まであるようなものでしょう。(^^;
社長と取締役が出てくるとどうしてもその下が必要だと思います。
具体的な生きている内の”ありがたや!”、つまり現世利益(げんぜりやく)を授けたり、 仏法に対して仇なすものを降伏(ごうぶく)するといった軍隊までのさまざまな職能集団が組織されています。
仏のもたらすものは「功徳」と呼ばれる心のあり方に関するものです。
その高尚なものに比し、”芸があがりますように”(伎芸天)、とか”商売繁盛になりますように”(弁財天)というのは、極めて直接的で身近なものとして信仰を集めます。
造像もその性格を映したものになります。
如来は覚者ですからほとんど飾り(「荘厳」(しょうごん))はありません。
大日如来のみ宝冠その他で荘厳された姿に造像される例外はあるようです。
一方で菩薩以下は荘厳され、性格や能力を示す持物(じもつ)を持ちます。
持物は武器であったり、狩猟具であったり、水瓶や蓮華であったり、即物的にそろばんであったりとさまざまです。
姿も異形であることが珍しくありません。
長谷寺のご本尊は、十一面観音です。
像の大きさは奈良の大仏を基準とするならばちっぽけということになるでしょうが、普通の人を基準とした場合、2mの大男であっても十分な大きさであり、見上げる大きさです。
その大きさ故、頭部は薄暗くて近くからでも良く見えないんですが、前に書いたとおり、日が射すと磨きこまれた床に反射してパーッと明るく浮かび出るのです。
もちろん、これは”たまたま”ということではないでしょう。効果をねらって作りこんだということでしょうね。
今なら”暗いなら照明当てとけ!”というところでしょうけど・・・昔の技術に感服します。( ゜ロ゜)
観音? 観世音?
観音は観世音が本来だそうですが、唐時代皇帝の字を畏敬して避けるいわゆる避諱(ひき)のため、「世」が脱落して一般化したとのことです。
ちなみに皇帝とは第二代李世民です。中国の影響力おそるべし・・
長谷寺観音は、岩座に立ち、荘厳は天衣(てんね)に瓔珞(ようらく)、持物は右手に錫杖(しゃくじょう)、左手に蓮華(未開敷)を挿した水瓶というところでしょうか。
うそかも・・・?
仏像についてのこんな記載は”うざい”方も興味ありという方もおありでしょう。
所詮想像の産物ですからね・・・
世界の大きな宗教は唯一神の信仰ですが、長谷寺やその周辺に立つと水の流れ、一木一草にも神が宿るという考え方は極めて自然なものに思えます。
日本には神も仏も同じだった時代があります。仏像もいろんな”化身”であったりもします。
各地のお寺にいろいろな神仏像があります。また楽しみが増えた感じがします。
どうでもいいことをいっぱい書きました。
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