ベリーダンススタジオ★☆★ぱわふるマドンナ★☆★ 主宰・坂口せつ子 

ベリーダンスにヨガ、深層美容術、トータルであなたの人生をサポートします。新しい自分を再発見してみませんか。

すてきな命 vol.37

2007-04-14 22:01:39 | すてきな命
 今のるり子さんは、私が初めてお会いした十七年前に比べて百倍も暖かく美しく見える。十七年前は事務長として仕事をバリバリやっていて、その仕事への自信にあふれていた美しさだった。今は痴呆になった夫の幸せのために、あれやこれやと気配りをし、おいしい食べ物を用意し、しものお世話をする愛にあふれた一人の人間としての美しさだ。

 るり子さんは、何をするにも、夫の顔色や様子を見て行動する。夫には、何度か説明し、やっとわかって、いい顔になる。「いい顔」で物事を進めないと、後でさらに手間のかかることになる。夫の世話をする人間は、自分しかいないのだという責任感が、るり子さんの心に、さらにリンと張りを作る。るり子さんは自分が健康でなければと玄米を食べている。夫は小学校の校長先生だった。定年前に発病し、退職したとたん、さらに症状は悪化した。

 時には、るり子さんは夫をデイケアにあずけて日本舞踊をやったりする。夫を愛するエネルギーを培うために、ちょっとわがままして心のバランスをとっている。夫が喜ぶ様子を話するり子さんは、一番輝いている。
(坂口せつ子)

(高崎市民新聞2002年5月23日)

せつ子は「すてきな命が輝くまちづくり」を目指しています。
せっちゃんの明るい「かきくけこ」

すてきな命 vol.36

2007-04-14 21:57:42 | すてきな命
 筑波大学在学中のスリランカ人アトさんは、朝九時、藤岡の高山家に着いた。軽自動車で筑波を五時に出てきた。アトさんの母国語である「シンハラ語」を熱心に学んでいる高山晴美さんが待っていた。土曜日に五時間、日曜にも五時間。トイレと食事以外は勉強をする。アトさんは新聞広告の裏を使って文字や単語のカードを作ってきてくれる。スリランカに家族のいるアトさんは、何をするにも真剣だ。その真剣さをしっかり受けとめる晴美さんがいる。

 晴美さんは五十七歳。通信会社に三十七年勤めた。定年まであと六年の時、脳の大手術をした。元気になった晴美さんは、定年まで仕事をするよりも、思いっきり自分の生き方をやってみようと退職した。縁あって、知り合いの仏教者がスリランカに学校を作るという活動に参加した。何度かスリランカに行っているうちに、さらに、スリランカの本当に貧しい人たちのために自分の情熱やエネルギーを使いたいと思うようになった。それには言葉を学びたい。晴美さんは生き生きと勉強している。

 「私は百歳までいきる気がするの!だからまだまだこれからよね!」こんなすてきな、わたしよりちょっと年上のお姉さまが身近にいて、せっちゃんはとてもうれしい。
(坂口せつ子)

(高崎市民新聞2002年5月9日)

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すてきな命 vol.60

2007-04-14 21:56:38 | すてきな命
 三ヶ月に一度、私のスタジオに磯部煎餅を売りに来るおばあちゃんがいる。腰を曲げて、日よけ帽子をかぶり、乳母車に磯部煎餅をたくさん乗せて押してくる。どこから来るのかわからないが、もう何年も来ている。年齢を聞いたら八十四歳。

 「先生こんにちは。マァいつ見ても先生はキレイでうらやましいですねェ」とか「そちらの人は先生の娘さんですか」などと私よりも十歳も年上の人に、まじめな顔で聞いてくる。「やだぁ、おばあちゃん、私は先生よりもずっと年上よ」と言って、「おばあちゃん、もう一つ磯部煎餅もらうわ」ということになる。おばあちゃんの名前は、わぐりさんという。

 「みなさんはいいですねぇ。私なんか顔も悪いし、頭も悪いし、名前も悪いし、親を恨みますよ」と力を込めて言う。

 煎餅にちょっとかけたところがあった。「先生、少しで申し訳ないけど十円まけさせてもらいます」。おばあちゃんの笑顔と、人を立てる人蕩術から宝物を学ぶ。

 私は、おばあちゃんが来たら、三百円の磯部煎餅を必ず買う。
(坂口せつ子)

(高崎市民新聞2003年5月)

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すてきな命 vol.59

2007-04-14 21:55:10 | すてきな命
 おじいちゃんは、六人の子供達がお見舞いに来ると、痰を取る穴に器具を入れてもらい「原山に帰る」と繰り返し、やっとの思いで言っていた。子供達は、その命の叫びをまともに聞かず、「わかったよ、今、タクシーを呼んだから」などどウソを言って、「じゃあ、また来るよ」と言って帰っていった。

 私が交通事故で首の骨を折り、寝たきりで一ヶ月過ごした時、二人部屋の隣のベッドのおじいちゃんは、家に帰って死にたいとずっと訴えていた。私は隣のおじいちゃんの様子をうかがいながら話しかけた。おじいちゃんは、のどに穴を開けていたので声を出せなかったが、私の問いかけに是か非かを答えていた。手術をしたおなかから毎日コップ一杯の膿が出ていた。ある日、家政婦さんが、おじいちゃんに優しく「おやすみ」と声をかけ、電気を暗くし、付き添い者の簡易ベッドに横になった時、おじいちゃんはウチワで顔をあおいだ後、全身の管を抜いた。

 医者や看護婦がバタバタとしていたが、そのまま帰らぬ人となった。私は、自分の父はこんな死に方は絶対にさせないと心に誓った。私が三十三歳の時のことだ。この二年後に父は逝った。
(坂口せつ子)

(高崎市民新聞2003年5月)

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すてきな命 vol.58

2007-04-14 21:54:31 | すてきな命
 イラクでたくさんの人が死んだ。Aさん(五十一歳)は「アテルイ」という千二百年前の勇気ある若者のアニメ映画の話をしてくれた。朝廷軍の侵略に、命を賭して闘ったアテルイ率いる蝦夷(えみし)たちの物語。

 このアテルイは、「おたがい失った命の数だけ憎しみが増える。大和の王に会って。俺たちと大和で平和に暮らせる方法を話し合いたい」と投降し、戦さを終わりにすることを決意し、そして、蝦夷の人たちに涙と共に見送られるというストーリーだ。岩手県の人たちが制作した。

 Aさんは、この映画を多くの人たちに観てもらいたいと言っている。千二百年前の歴史から学び、これ以上戦争で人が死んだり、傷ついたりしないように、立場をはっきりしなければならない。

 「蝦夷・アテルイの戦い」の著者・久慈力さんの本は、もう五版増刷されるほど売れているという。Aさんは「すべての武器を楽器に」と歌っている喜納昌吉さんのコンサートや、大地が種を選ぶという砂漠の緑化の粘土団子の福岡正信先生の講演会、長倉洋海さんのアマゾンの写真展などを企画し、公開してきた。これからの時代をどう生きるか、Aさんの祈りは続く。
(坂口せつ子)

(高崎市民新聞2003年4月)

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すてきな命 vol.57

2007-04-14 21:53:56 | すてきな命
 三十四歳の彼女は、素直な心と輝いた目で私と話をする。子ども時代に裕福に育ち、中学校一年の時、父の会社が倒産、家を出て、母は途方にくれながらも、居酒屋を始めた。さみしさと苦労があってか、母は酒に溺れていった。そんな中、出会った男性と結婚をした母と共に、その男性の家で生活することになった彼女は、ある日、階下の物音で、あわてて降りると倒れている母と、威嚇しているその男が立っていた。母は、何度もケガをするような暴力にあいながらも、耐えていた。

 ある時、骨を折るケガをした母を病院に背負っていった彼女は「もう絶対にあの男の元へ母を帰さない」と決めた。「母は私が守る」そう決心した。彼女「Kさん」は、高校時代からアルバイトをした。疲れて学校へはあまり行かなかった。ある日、最も生徒に恐れられている先生に呼び出された。職員室の片隅に座らされた彼女に、先生は「お前は両親にすばらしい環境をもらっている」「強く生きなければならない環境だ。ガンバレ」そう言ってくれた。Kさんは涙が止まらなかった。

 「子供が親を支える」。Kさんがこんなに人間愛に満ちた目をしているのは、こんな先生の存在もあったからだと私は思う。Kさんと私は未来のたくさんの夢を語り合った。
(坂口せつ子)

(高崎市民新聞2003年4月)

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すてきな命 vol.56

2007-04-14 21:52:22 | すてきな命
 十六歳の時から思い続けてきた人に、二十歳の時に花束を送った。家具職人として一人前になる決意をした時だったので、思いを心の奥に秘めたまま、二十三歳で正式にプロポーズして結ばれた。看護士の妻が、三年前にくも膜下出血で五十一歳の若さで、突然逝った。「今までありがとね、お父さんまだ若いんだから、私が死んだらまた結婚してね」と言い残し、次の日、病院で仕事中に倒れたという。

 そんな堀越一美さんは、その後、三年間、仕事以外は家に引きこもってしまったという。最近、私のスタジオに「運動をしたいんです」と通い始めた。二人の娘さんに外に出るようにいつも言われていて、帰りに必ず奥様の話になる。話をしながら涙ぐむ。ある時は「今そちらに向かっているのですが、胸が痛いので運動はどうしようかと思うのですが」と電話が入った。私は「恋の病ですか」というと「そうなんです」という。「ではスタジオに来て私の愛犬でもなでてて下さい」「そうします」。結局堀越さんはエアロビをして帰り、その後電話を下さった。「女房を思いだしてしまって」。

 こんなにも愛し愛される夫婦は、先に死んでも後に死んでも「幸せな」夫婦そのものだ。一人の人と添いとげる人生もスバラシイ。
(坂口せつ子)

(高崎市民新聞2003年3月)

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すてきな命 vol.55

2007-04-14 21:15:32 | すてきな命
 私が十二歳だった。小学校まで四キロの帰り道、私は左側に一年生の女の子と手をつなぎ、右側を行儀良く歩いていた。突然、目の前に小型トラックが向かって来た。車は私の右腕をかすり、倉庫の木壁を削りながら、私たちの後ろにいた小学校四年生の「妙子ちゃん」を巻き込み、引きずり、反対側の川へ落ちた。私の目の前で、妙子ちゃんの頭から血が噴き出し、見える両ももが赤紫に腫れていった。生死をさまよう日が三日間も続いたことを、久々に実家に帰った私は、あの日から三十八年過ぎた昨日、実家の近くに住む妙子ちゃんの口から初めて聞いた。二人でその時のことを涙ながらに話した。

 事故の後、私は遠い病院へ歩いて行き、妙子ちゃんの部屋の外に立ちすくんでいた。私にできることは何も無かった。ある日、妙子ちゃんのお母さんが部屋から出てきた。私を見て泣いた。私は、その涙で、もうここには来てはいけないと思い、それから行くのを止めた。昨日、その涙は、私のことを心配しての涙だったことを知った。運命のいたずらの中で、何かにつかまりながら歩く妙子ちゃんは、和裁を習い、結婚をし、男の子を二人産み、お母さんの助けも借りて育ててきた。「せっちゃん、また来てよ」と穏やかな笑顔で言った。
(坂口せつ子)

(高崎市民新聞2003年3月)

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すてきな命 vol.54

2007-04-14 21:11:25 | すてきな命
 人は、より良い人生を求め、一大決心をし、困難に立ち向かえる時がある。二十代で一人スペインに旅立ち、国立ホテル学校に入るため、二度三度、学校長に直訴に行き、入学を許され、三年間学んだ。帰国後、スペイン料理教室と、一般に向けて料理を提供した。私は知り合いとスペイン料理をいただき、皿にへばり付いたものまでスプーンできれいに取り、食べてしまった。そのことを「とてもうれしいことです。ありがとう」と言ってくれた。十八年前のことだ。

 昨年、私のことを覚えていてくれて、本欄を読んで電話をくださった。おばあちゃんの味のおまんじゅうを三年研究し、実家で実父のお世話をしながら、そのおまんじゅう店を始めたという。私が彼女の料理をいただいた十八年前の後、幸せな結婚をし、夫の許しの上で実家に帰してくれた。おまんじゅう発売に向けて、全国のおまんじゅうを夫婦で食べ歩き、研究旅行をしたという。

 「上州はるなのみさとまんぢう」と名付け、料理の生徒さんの描いてくれた包み紙のおまんじゅうをいただいた。小豆は片品産、小麦粉も無農薬群馬産、生真面目な轟まさ江さん五十四歳のおまんじゅうは、彼女の愛の味がした。
(坂口せつ子)

(高崎市民新聞2003年2月20日)

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せっちゃんの明るい「かきくけこ」


すてきな命 vol.53

2007-04-14 21:10:38 | すてきな命
 T・M・ホフマンさん、米国出身。アメリカを離れて三十年になる。世界の音楽を研究し、特に、日本とインドの音楽を愛し、日印音楽交流会を設立した。インドには六年間滞在し、インド古典音楽を学んだ。日本には十八年滞在し尺八や琴を研究している。

 より深く、日本音楽を知るために、中国を通じてインド音楽を研究する楽しさ、奥深さ、ロマンを私たち日本人に伝えることに使命を感じている。ただ、私たち、日本という所で生まれた人間が、それを理解することが意外に難しいことを私なりに知った。ホフマンさんのレポートの中で、「日本語は多様な文字風景が目で楽しめるのに対して、発音は極めて少ない。金田一春彦によると日本語で使われている音節は百十二だけで、北京語は千二百、インディ語は二万余りの音節が発音されている」とのこと。私は知り合いの中国人に「花」を中国語で歌ってもらった。カラオケのカタカナの発音でない音節がいっぱいだ。

 ホフマンさんはインドと日本を拠点に世界中で演奏や講演、CDの制作、出版を続けている。
(坂口せつ子)

(高崎市民新聞2003年2月6日)

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