ベリーダンススタジオ★☆★ぱわふるマドンナ★☆★ 主宰・坂口せつ子 

ベリーダンスにヨガ、深層美容術、トータルであなたの人生をサポートします。新しい自分を再発見してみませんか。

せっちゃん事務所のようす

2007-04-14 21:10:25 | (おまけ)
ちょっと前の スタジオの前の桜です★


スタジオの周りは、今花盛りです♪




坂口せつ子事務所の看板、セキチューでペンキを買って手作りしました


入り口は、せっちゃんの描いたベリーの絵があります


県会議員の橋爪さんに激励をいただきました。
(ここだけ選挙事務所っぽい?)


自転車です。明日から、これで市内を回ります!!


さいごに
せっちゃん事務所のお留守番のバン君です


坂口せつ子事務所は JA片岡店とコーヒー豆の三貴屋さんの間です。
みなさん、よろしくお願いします♪




すてきな命 vol.52

2007-04-14 21:09:29 | すてきな命
 高崎駅で友達ファミリーと待ち合わせをした。大きな荷物が四つ。中には自転車が入っていた。小学校四年生の息子さんと、その両親、そして私はその自転車を持って新幹線に乗った。長野県佐久平まで三十分。駅前に降り立った。そのお父さんは、四台分の自転車を手際よく組み立てていった。お母さんと息子さんが手伝いながら。そして自転車に私達四人は乗り、出発。途中、コンビニエンスストアでおにぎりと飲み物を買った。

 旧道を通って田口峠へ向かった。大きな家、白い塀の家並み、歴史あるその通りは、自転車で走ることが楽しい。美しい空気を思い切り吸える。少しずつ上り坂になっていく。息子さんが一番、お母さん、私、お父さん。離れたり追い越したり、自転車を押して歩いたり、すばらしい運動量だ。峠の上に着いた。雨川ダムがあった。そこで一休み。お父さんが皆のブレーキを整えて、坂道を一気に下った。

 家族や友達にこんな経験をさせてくれた西野宏さん、いつもは奥様と共にお医者さんをやっている。東海道のローカルラインも自転車で走った経験がある。歴史を振り返りながら古い道路を走る楽しさを教えてくれた。
(坂口せつ子)

(高崎市民新聞2003年1月23日)

せつ子は「すてきな命が輝くまちづくり」を目指しています。
せっちゃんの明るい「かきくけこ」

すてきな命 vol.51

2007-04-14 21:08:52 | すてきな命
 私はまだ中国に行ったことがない。一三〇億とも、一五〇億とも言われている中国の人口、そして、日本の何十倍も広い大陸。

 「曽令富」さん。心象浪漫水墨画家。日本に留学し、そして日本で仕事をし生活をしている愛娘二人のもと、高崎で、二度目の個展を昨年十二月に開いた。二人の娘が翻訳パンフレットを作り、通訳し、作品の説明をしてくれた。

 中国には五十以上の少数民族がいるという。四千年の歴史上の中国四代美女や「仕女飛天」「唐宮楽技」「歴史人物」「神仏仙人」などなど。私は中国の歴史や文化にひたり、この個展で、いっきに中国に好奇心を持った。曽令富さんの作品には中国の詩や説明が絵といっしょに描かれている。力強いロマンあふれる男たち、美しく健康的な舞う女性、愛あふれる母子、三峡ダムが造られることによって変化してしまう景色。その説明を聞いていると中国語を勉強したくなってしまった。自分の生まれ育った文化を大切にし、他の国の文化や生活習慣を謙虚に学ぶ。世界のリーダーがそうであって欲しいと思う。娘さんに重慶の名物「火鍋の元」を頂いた。とてもからくておいしかった。
(坂口せつ子)

(高崎市民新聞2003年1月9日)

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せっちゃんの明るい「かきくけこ」


すてきな命 vol.50

2007-04-14 21:08:18 | すてきな命
 私が結婚して、二人目の子どもを産んだ二十二歳の頃、近所を散歩していると、「良い天気だね」声が聞こえてきた。声のする玄関へ行って「こんにちは」とあいさつをした。ベッドの上が、彼の全世界だった。家業の電話番を始め、株を売り買いしたり、とても元気に生きていた。

 その人は、福ちゃんという人で、四十代か五十代だった。小学校四年生の時に、脊椎カリエスになり、その後、ずっとベッドの生活だという。私は二十歳の頃から食べ物による病気治しや健康法をやっていたので、その先生に聞いてみた。先生はあっけなく「治るよ」と言った。その一言でバラ色の空になった私は、一週間、三度の食事を運ばせて頂いた。福ちゃんはおいしそうに食べて下さった。その後、遠い山の中の病院に入った福ちゃんを見舞ったことがあった。そんな小さな赤ちゃんを連れて、この病院へ来ちゃだめよと看護婦さんが言った。福ちゃんは「オレの彼女だ」と皆に言っていた。数十年が過ぎ、福ちゃんが亡くなる時、「せっちゃんに会いたい」と言っていたと、家族の方から聞いた。ああ、もっといっぱい会いに行っておけばよかった。福ちゃん、生まれ変わったら、又会おうね。
(坂口せつ子)

(高崎市民新聞2002年12月12日)

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すてきな命 vol.49

2007-04-14 21:07:47 | すてきな命
 アイヌの言葉はアイヌの民族の言葉であって民族の存在の証である。その言葉が消え去ることなく、継承・発展して欲しい。七十七歳になったアイヌの菅野茂さん。七十歳の時にアイヌ語辞典の初版を出した。見出し項目八千、項目原稿六〇七枚、例文原稿七五枚など、合計一三二二枚分を出版に持ち込んだ。アイヌ語しか話さなかった祖母に、山や川へ行き、民話とともにアイヌ文化と言葉を教えられた。

 北海道平取町立の「二風谷アイヌ文化博物館」の展示物と、菅野さん個人の経営する「二風谷アイヌ資料館」の二館分の展示物は、菅野さん一人で収集制作した。アイヌ語の録音は、話せる人のいるうちにと、あちこちの古老たちの語りだ。平取町町議会員を五期、著述業を経て参議院議員になり、明治三十二年に施行された「北海道旧士人保護法」を「アイヌ新法」に変えた。アイヌ文化は、人間が自然に守られ、生命を育んでいる事を、やさしく、楽しく、その知恵を伝えてくれる。北海道を国にして、菅野さんを、その大統領にしたらいい、などと言っていた札幌大学の先生がいた。長年受け継がれた豊かな文化のあるアイヌの人達はスバラシイ。
(坂口せつ子)

(高崎市民新聞2002年11月28日)

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せっちゃんの明るい「かきくけこ」

すてきな命 vol.48

2007-04-14 21:06:55 | すてきな命
 真っ黒に日焼けした肌、引き締まった筋肉質の身体、動物のように澄んだまなざし。彼は低くボリュームのある声で、中国の砂漠化している地域の話をした。詩を読むように地球上の今の大自然を語る。長い、地球上の歴史の一点を私たちがどう生きたら良いかを、提案しているかのように。

 松本英揮さん、エコロジスト。今、四十一歳スライド映写機を担ぎ、折りたたみ自転車に乗って、世界中の企業、学校、行政、NGOなどで「地球のスライドショー」を開いている。アメリカ、中国全土で開催した。

 十二歳の頃から一人旅を始め、二十歳の頃にはズタ袋担いで世界五十カ国を歩いた。アジアの人々のすばらしい助け合いの知恵、そして中国から入る地球の亀裂、デンマークでの美しいまでの環境政策、ボスニアの弾痕だらけの壁、ルーマニアのエイズの子どもたち。

 玄米菜食、日本茶、裸足好き。宮崎の庭に井戸を掘り、風力発電の風車がある。さわやかな松本さん。今年はヨーロッパでスライドショーを開催している。
(坂口せつ子)

(高崎市民新聞2002年11月14日)

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すてきな命 vol.47

2007-04-14 21:06:19 | すてきな命
 三十代の時に、夫が浮気したことを知ってしまったM子さん。四十代になって、すっきりしない自分の人生を問い直そうと、海外に一人旅した。

 旅行会社の人が、「パスポートを無くすと帰れません」と言った。「あっ、そうか。パスポートを無くしたら帰らなくていいんだ」。日本から遠く離れた所に、こんなにもたくさんの人が生きている。私も世界中どこででも、何をやっても生きていけそうな気がした。M子さんは帰って夫に離婚を申し出た。夫はいやいやながら承諾した。三人の子を引き取り、マンションを買った。運が良かった。どれもこれも二十代から経験を積み上げ、安定した収入の得られる仕事を持っていたおかげだ。

 五十代のM子さんは、週末だけデートするボーイフレンドがいる。彼の奥様は十年前に他界し、仕事をしながら自分の母親の世話をやりとげ、見送った。そしてM子さんと出会った。二人は時々旅行に出掛ける。きちんと自立できるだけの仕事をし、子ども達とも良い時間を時々過ごす。会いたい時にだけ彼とデートする。こんな中年女性もカッコイイ。M子さんは三十代にも見える美しい人だ。苦しみを乗り越えて得た自由は新鮮だ。
(坂口せつ子)

(高崎市民新聞2002年10月24日)

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せっちゃんの明るい「かきくけこ」

すてきな命 vol.46

2007-04-14 21:05:16 | すてきな命
 毎日の、家と仕事場の通い慣れた通りに、学校でもなさそうだが、子どもがたくさんいる。「何の施設だろう」Wさんは電話して訪ねた。壁に「今日のおやつ 小学生・せいべい一枚 中学生・せんべい二枚」と書いてあった。その施設は親がいなかったり、虐待されたりして、逆境に生きている五十人の子どもたちが暮らしていた。この子どもたちの喜ぶ顔が見たい。仲間に相談する価値があると判断したWさんは、知り合いに声をかけた。歩けないおばあちゃんから、クラブのママさんまで、十六人の善意とお金が集まった。魚釣りを企画した。カラオケにも連れて行った。季節のくだものもたくさん届けた。子どもたちといっしょに遊んでいるという感じで、してやっているという気持ちはもちろんない。深入りはしない。「何か困ったことがあったら電話して」と電話番号を渡してある。

 昨年、取引先が倒産し、二千万円が焦げ付いた。今年、病気をし、四ヶ月入院した。女房がかけがえのない人であることを思い知らされた。結婚して初めて「感謝している」と素直に言えた。大手会社からの受注もあり、社員とかけがえのない奥様と、少しずつ身体慣らしをしながら、仕事に取り組んでいる。誠実なWさん、施設の子どもたちとの交流も三年目を迎える。
(坂口せつ子)

(高崎市民新聞2002年10月10日)

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せっちゃんの明るい「かきくけこ」


すてきな命 vol.45

2007-04-14 21:04:41 | すてきな命
 「写真を一緒に撮らせていただけますか?」すると私が座れるように座り直して席を空けて下さった。「わかりました。どうぞ」その方は私の目を見てそして頭から足まで視線を流してまた目にもどり私の胸元の名札を見て声を出して読んだ。そしてまた目と目でこのフォーラムの意義や世界中の一人一人の命の重さや地球環境の調和などの大切さを確認しあい、そして握手の手を出してくださった。しっかりと心のこもった握手の後「さあ、写真を撮りましょう」と声をだしジェスチャーをした。
 一九九三年、京都国際会議場で開かれた国際会議の最後の夜、春の穏やかな気候の星空の下でのパーティのひとコマだった。なんの肩書きもない、ただのこの会議にオブザーバーとして参加しただけの私にこんなにも丁寧に接してくださる。きっとこの方は世界中どんな階層の人ともこんな握手のできる方なのだ。
 その方は前ソ連大統領ゴルバチョフ氏。「人類生存には地球の存続が最優先であり人間といえども生態系を破壊しては生きてゆけない事実を知るべきだ。」と価値の転換を提唱し、「国際緑十字」初代代表に就任した。彼のスピーチは独立した小さなコミュニティがそれぞれ尊敬し合い良い関係を創造して行くことというのが印象的だった。私はその握手した手を握りしめ1週間位は手も洗わなかった。
(坂口せつ子)

(高崎市民新聞2002年9月26日)

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すてきな命 vol.44

2007-04-14 21:03:52 | すてきな命
 私のお義父さん、坂口民次郎は、民だった。私たちが結婚した三十年前、義父は市議会議員をし、自動車の修理販売会社を三十人の社員と力を合わせて成功させていた。私の父、村岡勝次郎と、二日違いの大正六年生まれ。戦時中、太田の「ゼロ戦」工場の上司と部下だった。物資のない時代には、農家をしていた坂口家に野菜をもらいに数回行ったと父母に聞いた。四十歳まで、酒もタバコもやらないで昼夜働き抜いたという。私の夫は、それから生まれた子供だ。私の両親と坂口家の両親は、この上なく仲良しで、いつも四人でどこかに出掛けていた。私の赤ちゃんが生まれると、毎日、義父がお風呂に入れ、赤ちゃんを抱きながら、晩酌することが日課だった。本当に幸せな家族だった。

 ある日、いつものように晩酌しながら、「せつ子、ここに来てすわりなさい」と呼んだ。「今日、お父さんは議会で『民のくせに!』と言われた。お父さんはなんて答えたと思う?」私は正座し直して言葉を待った。「自分は立派な民だ。自分とあなたは同じ赤い血が流れている。だから何だ」私はそんな義父を尊敬していた。

 私が離婚して十年後、義父が亡くなった日、近くの道で、その姿を見た。最後に、私や孫の様子を見に来てくれた。私の心で見た映像だ。
(坂口せつ子)

(高崎市民新聞2002年9月12日)

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