かなり前にこのブログで「光る砂漠」のことを書いた。
この曲の作曲者である萩原英彦氏は、他にも多くの合唱曲を残している。
それらの中で儂が愛してやまないのは、この「光る砂漠」と「白い木馬」、そして「深き淵より」の3つである。
このうち、儂がステージで歌ったことがある、つまり真剣に練習したことがあるのは「光る砂漠」と「白い木馬」で、残念ながら「深き淵より」は歌ったことがない。
氏の曲は、音もリズムも大変難しいし、ハミングや高い音も多く、とても簡単には歌えない。さらにこれらの曲の詩は、「いのち」もしくは「いきる」ということがテーマであり、その言葉はどれも非常に心を打つものである。
この曲の作曲者である萩原英彦氏は、他にも多くの合唱曲を残している。
それらの中で儂が愛してやまないのは、この「光る砂漠」と「白い木馬」、そして「深き淵より」の3つである。
このうち、儂がステージで歌ったことがある、つまり真剣に練習したことがあるのは「光る砂漠」と「白い木馬」で、残念ながら「深き淵より」は歌ったことがない。
氏の曲は、音もリズムも大変難しいし、ハミングや高い音も多く、とても簡単には歌えない。さらにこれらの曲の詩は、「いのち」もしくは「いきる」ということがテーマであり、その言葉はどれも非常に心を打つものである。
したがって、これらの曲を音楽として表現するのは、技術的な難易度と相まって、アマチュアにとって相当の難関である。(儂にそれだけの才能がないとも言えるが。。。)
でも、これらの曲はみな大変に心地よく歌える。その理由の一つは、非常に美しいピアノの伴奏にあると思う。いや、それは伴奏などと言うものではなく、もはや独立したピアノ作品と言えるものだろう。素晴らしいピアノ曲に乗って歌うことができる合唱作品なのである。
そして、歌っている時、気がつくと、何か、前へ進み続ける“流れ”に乗っていると感じることが多い。儂にはその感覚が言葉では表せないほど心地よいのである。
でも、これらの曲はみな大変に心地よく歌える。その理由の一つは、非常に美しいピアノの伴奏にあると思う。いや、それは伴奏などと言うものではなく、もはや独立したピアノ作品と言えるものだろう。素晴らしいピアノ曲に乗って歌うことができる合唱作品なのである。
そして、歌っている時、気がつくと、何か、前へ進み続ける“流れ”に乗っていると感じることが多い。儂にはその感覚が言葉では表せないほど心地よいのである。
「光る砂漠」(詩:矢沢宰)
第九曲「ふるさと」
(一)
ふるさとは
ただ静かにその懐に
わたしを連れ込んだ
雲でもなく幻でもなく
生きた眼と心を持って
わたしははいっていった
青いにおいにむせかえって
ことばもなく
遠い日の記憶がよみがえった
(二)
水は白い壁と天井と共に
命のなかにあり
ふるさとの山にあった
苔むした岩肌をたたき
その響きは命の中にも流れていた
手をさし入れて
静寂の中で二つの水が混ざったとき
まぶしい輝きを覚え
「山に水を返した」と思った
(一)
ふるさとは
ただ静かにその懐に
わたしを連れ込んだ
雲でもなく幻でもなく
生きた眼と心を持って
わたしははいっていった
青いにおいにむせかえって
ことばもなく
遠い日の記憶がよみがえった
(二)
水は白い壁と天井と共に
命のなかにあり
ふるさとの山にあった
苔むした岩肌をたたき
その響きは命の中にも流れていた
手をさし入れて
静寂の中で二つの水が混ざったとき
まぶしい輝きを覚え
「山に水を返した」と思った
「白い木馬」(詩:ブッシュ孝子)
第二曲「ゆきんこが遠い国から」
ゆきんこが
遠い国から
かわいた町に
夢を与えにおりてくる
ほんのつかのまの夢だけれど
ゆきんこが
遠い国から
かわいた心に
うるおいを与えにおりてくる
ほんの一粒の涙になって
ゆきんこ ゆきんこ
お前の灯した白いあかりの下で
こよいは
美しい町に
やさしい人々が
遠い国を夢みて
まどろんでいる
「深き淵より」(詩:ゆきやなぎ れい)
第三曲「夜ふけの珈琲のかおり」
両手に包んで持ちあげると
両手に包んで持ちあげると
それは珈琲のようなにおいがした
もっと顔を近づけてかいでみると
しめったいのちの風が私にふれて
それは珈琲からたちのぼる湯気のようだった
きっとあなたはこげ茶色ね
きっとあなたはこげ茶色ね
夜ふけの道でひろった仔犬を胸にだいて
私はそう思った
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