これ、今から20年以上前に買って読んだ本。
儂はこの本を買った頃から仏教に興味はあったけど、特に勉強していたというわけではないので、そのために読んだわけではない。若い頃から氏の小説が大好きだったので、それで読んだ。だから、何が書いてあったのか、ほとんど覚えていなかった。
で、「あ~、そう言えば昔こんな本買って読んだな~」と思い出し、本棚から探し出してカビをきれいにして読んでみた。
ほぼ1テーマ/2ページで100個 のテーマがある。最初のいくつかにはわりと仏さまの教えのようなことも書いてあるが、副題にもあるように、ほとんどが生きるためのヒントのような内容になっている。
これ、目次の写真。
なにしろ20年以上も前、20世紀に書かれた本なので、今の時代にはちょっと合わないなと思えることもなくはない。でも、ほとんどのことは役に立つ、と言うより、儂にとっては、頷くことや考えさせられることが多かった。
「他力本願」は、もちろん他人の力をあてにすることじゃない。自分で修行して悟りを得るのではなく、阿彌陀様の「本願」によってのみ救済されるということ。
これは、我々のような凡夫が「自分で」そんなことをしても所詮無理だから、なんのはからいもせずに、仏さまの本願におすがりすればよいということだろう。確かにそうだと思う。
ただ、儂的には「自分で何も努力せずにただ仏さまにお任せする」というところに、ずっと引っ掛かって来た。後ろめたいと言うのか何と言うのか、「物事は自分で努力して成し遂げろ」と、子供の頃から教わってきたからかなw。
ただ、その考えも、この本に書いてあった、
〈帰依する〉とは、自分で決心し、努力してするのではなく、むしろおのずと「大きな力」によって、自然に引きよせられることなのではあるまいか。「わがはからいにあらず」と言う言葉が、そのことを見事に表現しているように思います。
⑧向こうからやってくるもの(P.35)
あるいは、
エンジンのついていないヨットは、まったく無風状態であれば走ることができない。~中略~しかし、風が吹いてきたときに、ヨットの帆をおろして居眠りしていたのでは、走る機会を逃してしまいます。~中略~じっと我慢し~中略~風を待つ努力は必要なわけです。その努力を〈自力〉と考えれば~中略~ある程度の自力も必要ということになる。しかし~中略~じつはその〈自力〉と見える努力も、本当は〈他力〉ではないのでしょうか。無風にもめげず、じっと風を待ち、いつでも風に応ずる緊張感、その努力をヨットマンにあたえ、そして「いつかは風が吹く」というくじけぬ信念を持続させるもの、それこそまさに〈他力〉の働きだと思うようになったのです。「やる気」をおこすこと、また、「人事をつくして天命を待つ」という気に、おのずとさせる力、これこそまさくしく〈他力〉の働きの本質でしょう。⑨人事をつくすことは、これ天命なり(P.39~)
といったこと、そしてこれら以外にもいくつかのことを読んで、ちょっと「目から鱗」かなと思った。
そして、あとがきに書いてあった、
人は宗教的なものに目覚めることによって安心立命できることは決してありません。どれほど深い信仰を獲得したとしても、人間としての悩みや恐れは消えないでしょう。むしろ大きな悲しみや、生きる痛みは、信仰に目覚めたことで、いや増すことほうが多いと思います。〈他力〉という考え方もそうです。完全に〈自力〉を捨てることなど、不可能です。しかし、〈他力〉こそ〈自力〉の母であると感ずるとき。生きる不安や、悩みや、恐怖に最後のところでなんとか耐えて踏みとどまることができるような気がするのです。あとがきにかえて(P.226~)
これにもまた、「他力」ということの本当の意味を教えられたような気がした。
さらに、以前の記事で少し触れた、那須信孝師の「如何に法要を勤めるか」という本にも書かれていた、
「今生はどうでもよいところで、未来の安養浄土往生すればよいのではない。現在をおろそかにして未来を観念してもダメだ。本当の未来は現在の中の内容であり、現在の中に内在するところに未来が成就する。現在を無視したただの未来などというものはない。」
ということも、ただ「他力」で往生すればよいということではないと言われているのかなと思ったんだけど、ちがうのだろうか。
もちろん、それこそ儂のような凡夫にはまだまだ∞にわからないので、これまたもっともっと勉強したいと思う。
参考にサイトを1つ貼っておく。「自力」と「他力」の関係について、五木氏が言われていることと同じようなことが書かれていて興味深い。