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昨日、県庁の帰り道は内灘経由だった
内灘大橋を過ぎると、そこには歴史民族資料館がある
見てはいないのだが、朝テレビ金沢で放映されていたらしい
中に入ると最初に目についたのは、大きな模型だった
それは大正14年に開園した粟ヶ崎遊園であり、
当時としては、今のディズニーランドのようなものであったのでは
ないかと思われた
しかし、昭和19年には軍事工場となり、
今は全くその当時の面影は留めていない
創設者は平沢嘉太郎で、彼は「北陸の木材王」とも呼ばれた
内灘闘争は戦後、在日米軍の砲弾試射場建設による
政府との激しい対立から生じ、
「草の根民主主義」の出発点と評価されたという
そして、現在の内灘はは凧に力を入れているようである
各地の様々な凧が所狭しと飾り付けられていた
恥ずかしいことに、同じ河北郡内にありながら、
全く内灘については無知でった
わりと読書は好きな方であるが、
五木寛之の「内灘夫人」も読んでいない
これを機にいろいろ知るのも楽しいかも・・・
内灘大橋を過ぎると、そこには歴史民族資料館がある
見てはいないのだが、朝テレビ金沢で放映されていたらしい
中に入ると最初に目についたのは、大きな模型だった
それは大正14年に開園した粟ヶ崎遊園であり、
当時としては、今のディズニーランドのようなものであったのでは
ないかと思われた
しかし、昭和19年には軍事工場となり、
今は全くその当時の面影は留めていない
創設者は平沢嘉太郎で、彼は「北陸の木材王」とも呼ばれた
内灘闘争は戦後、在日米軍の砲弾試射場建設による
政府との激しい対立から生じ、
「草の根民主主義」の出発点と評価されたという
そして、現在の内灘はは凧に力を入れているようである
各地の様々な凧が所狭しと飾り付けられていた
恥ずかしいことに、同じ河北郡内にありながら、
全く内灘については無知でった
わりと読書は好きな方であるが、
五木寛之の「内灘夫人」も読んでいない
これを機にいろいろ知るのも楽しいかも・・・
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