ただいま妄想中

夢、かつリアルな頭の中身をどこへ。

ゆだねて生きる

2008-08-26 10:05:18 | Weblog
早朝の電話。4日間で4件目の葬儀が入った。

そこに寄り添うという事。

ただ悲しむのではなく、慣れてしまうのでもなく。

その縁にあった人、みんなに。
亡くなった人が、
身をもって「いのち」を教えてくれる。

これは、他人事ではないんだよ
いのち輝かせて、日々を過ごすんだよと。

好奇心じゃないだろうかと
買うのをためらった後、手にして読んだ本がある。

『なぜ君は絶望と闘えたのか 本村洋の3300日』
門田隆将著・新潮社

光市母子殺人事件の、記録である。

本文より、殺人の様子を思い浮かべると
あまりの残酷さから、度々気分が悪くなった。

読み終えて、いろいろなことを思ったけれど、、。

人と人との関わり、縁があって
その人を、人たらしめている
その人を、形成している

ことを、強く感じました。

本村さんを、陰で支え続けた人がたくさんいて。
少年Fを、犯罪にいたらせる環境があって。

やっぱり、わたし達にとって

”自分をしっかりと
「受けとめてくれる」存在に出遇うこと”

が、いかに大切であるかを、思います。
わたしにとっての、その存在は

『あらゆる命を救うことができないならば、
決してわたしは仏にはなりません』

と誓い成就された、阿弥陀様です。

摂取不捨(せっしゅふしゃ)
=あらゆる命をおさめとって捨てない、仏さま。

仏教から派生していますが
浄土真宗のみ教えは、特殊かなと思います。

なんの善も成すことができない「わたし」が
ただお念仏ひとつで、救われてゆく

(善を成せない→悪人のすすめではなく、
自らが悪人であると自覚をせよ、ということであります)

きびしく、かつ、やさしく
見守ってくれる存在に出遇うことで

身をゆだね、安心して生きてゆける。

自分の行いを、環境のせいにできないのを大前提に

少年には、生きるよろこびを教えてくれる人や
何か、に出あうことがなかった。

その大きな闇が、事件を引き起こしたのだと思います。

悲しきかな。少年に「いのち」を教えてくれたのは

自らの死=死刑、であった様です。

残虐な事件で妻子を失った、本村さん。
当事者にならないと、その気持ちがわからないように

少年は、自分が「死ぬ」当事者になって初めて
見えてきたものがあるのでしょう。

本当は、死刑にならなくても
人はいつか、いのちを終えていく存在であると

本当の意味で、もっと早く気づいていたら。

ひとを、自分を、ちょっとでも愛でることができたかもしれない。

死を見つめることは、生を輝かせることであると
わたしは思います。

『煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、
よろづのこと、みなもつてそらごとたはごと、
まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておはします』
(歎異抄・第12条より)
コメント
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