表題の「だいえん」の漢字変換したら、「大円」とか「大宴」しか出なかった。
「代演」が一般的でないのが不思議だ。
今回は代演、すなわち先生の代わりに演奏会に出演した話である。
又も自慢話になるから、見たくない人はここでパソコンを閉じた方が良いと思う。
最近は物忘れも多くなってきたし、記憶が無くなる前に書いておこうと思った。
青木鈴慕師の代演を2回程行った。
一つは、創作モダンバレーの生演奏であり、もう一つは八木敬二のおさらい会だった。
「創作モダンバレー」の尺八演奏は元々青木鈴慕師に依頼されたもので、私は代わりにリハーサルだけの予定だった。
大学を卒業してNHK育成会に通っている時だったから、たしか1971(昭和46)年である。
曲は東京芸術大学出の作曲家、宮下和夫氏による新曲で、尺八とバイオリン、チェロ、打楽器による4人編成で、楽譜はあらかじめいただいていた。
リハーサルは芸大の教室で行われた。
芸大は初めて中に入ったが、気分が高揚するのを覚えた。
現代曲の小品で、尺八は低音から急に高音になったり、間が大事であった。
弦楽器と合奏するのは初めてだったので、かなり緊張した。
尺八は純音でなく、息使いや奏法でどうしても息と混じりけのある音になる。
その点を指摘されたが、仕方なかった。考えてみれば何故フルートでなく、尺八だったのか。
これも「ノベンバー・ステップス」の影響だったのか?
後日、渋谷のモダンバレーの先生宅で実際に振付と、演奏のリハーサルをした。
邦楽の世界と違って、洋楽の方々は何か話している内容のレベルが高い感じがした。
しかし、それほどの難曲ではなく、私でも務まるかなと思った。
結局、東邦生命ホールでの本番も私が演奏することになったのだが、青木先生から「君で良いと言っている」と言われた。カラオケ大会の時には「北原に仕事を取られてしまったなぁ」と笑いながら話された。
二つ目は、八木敬二のおさらい会での尺八助演であった。
これも24~25歳の頃だった。
おさらい会には青木鈴慕・山口五郎など錚々たるメンバーが助演だった。
ところが、青木鈴慕先生は、受けた後どうやら群馬県でリサイタルをすることになってしまった。ダブルブッキングである。
おさらい会では、先生は「こんかい」と「青柳」を演奏する事になっており、急遽私に「こんかい」を演奏するよう指名された。ちなみに「青柳」は鈴慕会の他の人だった。
信濃町の八木敬二先生宅に青木先生と伺い「こんかい」の練習をした。
三絃は八木先生で、箏は門下生の第一人者だった。
八木先生は立派な体躯で、素晴らしい低音のとおる声で、難しいリズムの速いカ所を指導していただいたお蔭で、しっかりとこなせた。
玄関を出てから、青木先生に褒められてうれしくなった。
練習はもう一度、私が単独で伺った。
そして当日、プログラムを見て、びっくりした。
「こんかい」は青木鈴慕のままで、私の名前に修正されておらず、結局知らない人は私が青木鈴慕と思ったかもしれない。
前後に、山口五郎、川瀬勘輔の大物先生が演奏していた。
とにかく必死で演奏した。
その時の賛助出演者に井上道子先生もいらしていて、どうも私の演奏を舞台の袖で聞いていたらしい。
終わって楽屋に行くと井上先生が私に「こんかいを演奏した人はどなた?」と聞かれたので、私は名乗った。
「良かったから青木先生に伝えておくわ」と言っていただいた。
これが、本当に伝わっており、後日鈴慕会の一泊合宿をした折に、青木先生から「先日八木先生の会でこんかいを吹いたのは誰だ?」と言われたので、「私です」と言ったら「井上先生が良かったと褒めていたぞ」と言われ、大変感激したのだった。
それで「こんかい」を気に入って「今回」だけでなく、その何年か後の鈴慕会芸術祭にても演奏をした。
「代演」が一般的でないのが不思議だ。
今回は代演、すなわち先生の代わりに演奏会に出演した話である。
又も自慢話になるから、見たくない人はここでパソコンを閉じた方が良いと思う。
最近は物忘れも多くなってきたし、記憶が無くなる前に書いておこうと思った。
青木鈴慕師の代演を2回程行った。
一つは、創作モダンバレーの生演奏であり、もう一つは八木敬二のおさらい会だった。
「創作モダンバレー」の尺八演奏は元々青木鈴慕師に依頼されたもので、私は代わりにリハーサルだけの予定だった。
大学を卒業してNHK育成会に通っている時だったから、たしか1971(昭和46)年である。
曲は東京芸術大学出の作曲家、宮下和夫氏による新曲で、尺八とバイオリン、チェロ、打楽器による4人編成で、楽譜はあらかじめいただいていた。
リハーサルは芸大の教室で行われた。
芸大は初めて中に入ったが、気分が高揚するのを覚えた。
現代曲の小品で、尺八は低音から急に高音になったり、間が大事であった。
弦楽器と合奏するのは初めてだったので、かなり緊張した。
尺八は純音でなく、息使いや奏法でどうしても息と混じりけのある音になる。
その点を指摘されたが、仕方なかった。考えてみれば何故フルートでなく、尺八だったのか。
これも「ノベンバー・ステップス」の影響だったのか?
後日、渋谷のモダンバレーの先生宅で実際に振付と、演奏のリハーサルをした。
邦楽の世界と違って、洋楽の方々は何か話している内容のレベルが高い感じがした。
しかし、それほどの難曲ではなく、私でも務まるかなと思った。
結局、東邦生命ホールでの本番も私が演奏することになったのだが、青木先生から「君で良いと言っている」と言われた。カラオケ大会の時には「北原に仕事を取られてしまったなぁ」と笑いながら話された。
二つ目は、八木敬二のおさらい会での尺八助演であった。
これも24~25歳の頃だった。
おさらい会には青木鈴慕・山口五郎など錚々たるメンバーが助演だった。
ところが、青木鈴慕先生は、受けた後どうやら群馬県でリサイタルをすることになってしまった。ダブルブッキングである。
おさらい会では、先生は「こんかい」と「青柳」を演奏する事になっており、急遽私に「こんかい」を演奏するよう指名された。ちなみに「青柳」は鈴慕会の他の人だった。
信濃町の八木敬二先生宅に青木先生と伺い「こんかい」の練習をした。
三絃は八木先生で、箏は門下生の第一人者だった。
八木先生は立派な体躯で、素晴らしい低音のとおる声で、難しいリズムの速いカ所を指導していただいたお蔭で、しっかりとこなせた。
玄関を出てから、青木先生に褒められてうれしくなった。
練習はもう一度、私が単独で伺った。
そして当日、プログラムを見て、びっくりした。
「こんかい」は青木鈴慕のままで、私の名前に修正されておらず、結局知らない人は私が青木鈴慕と思ったかもしれない。
前後に、山口五郎、川瀬勘輔の大物先生が演奏していた。
とにかく必死で演奏した。
その時の賛助出演者に井上道子先生もいらしていて、どうも私の演奏を舞台の袖で聞いていたらしい。
終わって楽屋に行くと井上先生が私に「こんかいを演奏した人はどなた?」と聞かれたので、私は名乗った。
「良かったから青木先生に伝えておくわ」と言っていただいた。
これが、本当に伝わっており、後日鈴慕会の一泊合宿をした折に、青木先生から「先日八木先生の会でこんかいを吹いたのは誰だ?」と言われたので、「私です」と言ったら「井上先生が良かったと褒めていたぞ」と言われ、大変感激したのだった。
それで「こんかい」を気に入って「今回」だけでなく、その何年か後の鈴慕会芸術祭にても演奏をした。