物忘れ防止のためのメモ

物忘れの激しい猫のための備忘録

20200207 美作 津山・真庭

2020-02-14 | 行った所

津山は美作にある、といってもピンとこないのだ。島田荘司や横溝正史のおどろおどろの小説のネタ、津山事件のイメージがあるので中国地方の山の中、というのは確かなのだが。

この図は高校生の使う新編日本史図表という参考書から採った。こんな細かいこと勉強してたんかいな?

古代吉備国が備前・備中・備後に分かれ、備前が更に備前と美作に分かれる。播磨や因幡・伯耆にも囲まれ海への出口はなく、あまりぱっとしない国に見えてしまう。

越前松平家の祖は結城秀康、徳川家康の子であり、将軍職を継いだ秀忠の兄である。秀康の子が忠直。しかし忠直は豊後に逼塞させられてしまい、越前藩は忠直の弟忠昌が継ぐ。忠直の系統は津山藩主となった。結城秀康以来の伝世品などは津山に継承されたということである。忠直お抱えの絵師に岩佐又兵衛がいた。彼の描いた絵物語なども津山に伝わっていたはずであるが、津山藩最後の藩主は廃藩置県後すぐ死んでしまう。享年45歳というからさぞや混乱を極めたであろう。家宝など保持できようもなかったろう。

津山は焼けていないのだろう、そこそこ城下町の街並みが残る。
その一角、洋学資料館へ行く。宇田川玄随をはじめとする蘭学の流れ、名前に見覚えはあっても津山藩だとは思わなかった人たち。小学生、6年生だろうか、が校外学習に来ていた。なかなか力の入った資料館だった。すぐ脇に箕作阮甫という天才語学者の家があった。


蕎麦屋に入る。信州蕎麦とあった。中国山地の山の中で信州か、と思ったが旨かった。津山に松平が入る前は森家が所領しており、森家は信州から来たそうだ。初代森忠政は森蘭丸の弟だそうだ。この人が実質的に津山城・城下町を整備したらしい。

津山城の石垣は大変立派なものだ。平城とされるが小高い丘の上にそびえ、天守があった頃はさぞ威容であっただろう。城の入口には森忠政の像があった。


「津山冷ゆ石の三鬼に会ひに来て」 山口誓子
西東三鬼の墓があるというから探すのだがなかなか。城下町の常で道が狭く一方通行が多いから行き過ぎるとまたぐるりと一周だ。うろついているうち鉄砲町という案内板を見つけた。吉井川で練習したのか。

ようやく墓があるという寺を見つけたが、墓地の中から探せず退散。隣接して宇田川家の墓のある寺もあった。





真庭は大庭郡と真島郡が合わさり真庭だそうだ。真庭は幕府直轄地だったが旧勝山町には勝山藩があった。出雲街道が走り、ここも古い街並みを売りにしている。勝山の資料館へ入る。勝山藩主は三浦だそうだ。鎌倉の有力御家人だった三浦氏は北条早雲に追い詰められ、油壷で終焉を迎えたのだが、命脈を保った一族もいたのか。




暖簾をかけた町屋が多くそれも売りらしい。屋根が気になる。屋根端の築地塀の上部のようなものは何というのか。



武家屋敷付近

この辺りは林業が盛んだ。新しい加工材も作られる。CLT(Cross Laminated Timber)だ。


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20200207-10 美作・出雲・伯耆・因幡

2020-02-14 | 行った所

20200207(金) 寒い朝だ。暖冬で来ていたが急に冷え込んだ。積雪というほどではないが、薄く凍っている。
だが、日が差してきているようだ。北陸道から舞若道に入る。山の樹々の雪が白く輝き、北欧のクリスマス絵葉書でも見るような景色になっている。吉川(よかわ)JCTから中国道に入り、一気に津山へ入る。
まだ昼前だ。津山は城と街並みが売りらしい。洋学資料館辺りを見、蕎麦屋に入る。信州蕎麦とある。中国山地で信州かよ、と思ったが旨かった。津山城下を作った森家は津山に来る前は信州に居たそうだ。城へ向かった後西東三鬼の墓を探す。
真庭に行く。旧勝山町という所が街並み保存地区となっている。

20200208(土)久世ICから米子道を北上、大山寺を目指す。雪が舞う。スキー場の駐車場の一角に車を停め大山寺に上がる。車道は圧雪、階段は雪に埋もれていたが雪かきをしている人がいる。佐々木高綱の地蔵を見て下りる。下りの圧雪でスッテンころりんしてしまい、尻が痛い。
大山から安来へ。和鋼博物館へ行く。たたらの町安来というわけだ。この博物館はよかった。ケラという物が何物か初めて分かった。観光会館のようなところへ行きどじょうを食べた。
八雲立つ風土記の丘へ行く。寒く時折雨が落ちてくる。歩き回る気がせず資料館を見て、車で出雲国府址へ行く。
松江に向かう

20200209(日) 松江から雲津浦へ向かう。えらく不便なところだ。覚源寺らしい寺とあるにはあった五輪塔を見るもピンとこない。海岸近くの諏訪神社は部外者立ち入り禁止となっていた。
引き返し、橋を渡り境港、中海に浮かぶ島というか砂洲の広がったものに見えるような島経由で宍道湖辺へ出る。宍道湖北岸に沿って走り出雲へ。出雲大社は大きな神社ではあるのだが、よく流行っているお宮さんにしか見えずあまり面白くなかった。本殿前に大きな柱跡が示してある。出雲神話の国譲りで大国主は巨大な社を建てて祭れという。例を見ない高さの神殿が可能になるという巨大柱跡だったはずだ。これに関する資料が出雲古代博物館にあると思ったのだが休館中だった。
蕎麦を食べて加茂岩倉遺跡へ向かう。朝は曇りで雨もぱらついていたが、すっかり晴れた。現在最大数の銅鐸が一括して見つかった遺跡だ。
加茂岩倉を出て高速で松江に戻る。松江城堀川めぐりの屋台舟の最終出港は16:00、間に合った。

20200210(月)帰路につくが、途中、伯耆国府址(倉吉市)と因幡国府址(鳥取市)へ寄る。
鳥取道を佐用JCTまで中国道-舞若道-北陸道経由で帰る。

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