松江から雲津浦へ向かう。
えらく不便なところだ。松江駅近くから美保関方面へ向けて走る。中海北側を走る。しばらく七類港行のバスが前を走っていた。七類港からは隠岐への船が出る。七類へ行く道との分岐を過ぎ、境港へ行く橋の下を通りしばらく行くと雲津へ入る道があった。対向車は滅多にないがすれ違いが難しい急こう配の坂道が続く。下って集落が現れる。
集落に入って間もなく覚源寺らしい小さな寺があり、その脇奥に五輪塔はあるにはあった。だが義親を示すものは何もない。
平家物語冒頭、本朝の滅び去った猛き者たちが列挙してある中に将門・純友らと並んで康和の義親が出てくる。
源義親は頼朝(義仲・義経)の曾祖父に当たる人物であり、八幡太郎義家の息子である。時の治天の君、白河院は源氏に冷たい。義親は対馬守に任じられてはいるが、これだとて東国に強い源氏への嫌がらせ、遠国へ追い払う意図を感じる。
康和3(1101)年、義親は、九州大宰府の大江匡房に訴えられる。義親が九州で人を殺し、官物を奪っているというのであった。朝廷は追討の前に義家の郎党の豊後権守藤原資道を派遣し、説得して召還を試みることになった。しかしその使者は義親に従い、官吏を殺した。何か義親側にまっとうな言い分があったことを思わせる話である。この後朝廷は義親を隠岐に流刑にするのだが、誰がどうやって義親を捕まえ隠岐へ連れて行ったのか、その辺はわからないらしい。実際隠岐へは行かなかったという説もあるらしい。が、出雲にはいたらしい。
嘉承2年(1107)出雲守藤原家保の目代らを殺害して年貢などを奪った。雲津浦に立てこもるが、白河院の命で追討使になった平正盛(清盛祖父)により討ち取られる。この辺の事情が書かれているのが、大山寺縁起絵巻である。雲津は蜘戸として出てくる。出雲風土記には久毛等浦として出てくる港だそうだ。とはいえこの縁起の成立も14世紀の事であり、200年以上もあとに書かれた話ということになる。
出雲のどこで目代を殺し、官物を奪ったのかもあいまいらしい。風土記の丘付近、現松江市大草町付近だろうと思ったのだが、12世紀初頭の出雲の国庁はどこにあったのだろう。どっちにしろ奪ったものを雲津に運んだとすれば船だろう。
ただ、行ってみて思うのだが、この雲津に義親が立てこもったという話自体に違和感がある。
雲津浦背後の山は険しい。浦は深い入り江で良港と言えるだろうが小さい。島根半島には42もの港があったという。その中でも雲津は大きい方ではないが、隠岐との定期航路のようなものでもあったのだろうか。それも義親がそもそも隠岐へなど行っていなかったら意味がなくなる。
雲津浦の山に砦を築き立てこもったなら、確かに難攻不落。だが出口がなくなる、反乱軍としての広がりを欠く。しかも正盛はわずか数日で義親を破り、12の首を挙げて京都へ凱旋したという。どうやって? 遠征軍が険しい山道をどう攻める? 海から行けば入江の口は狭い、狭すぎる。一番狭まっているところは100メートルを切るのではないか。これでは両岸から矢を射かけられれば船で入るのも難しい。同時に攻める側は海上封鎖することは可能だ。つまり物量に勝る追討軍が時間を掛ければ雲津の砦を落とすことは可能だが、短時間ではできない相談に見える。
雲津浦の入り江の外は、美保関北浦と呼ばれる景勝地だ。出雲赤壁と呼ばれる険しい海岸線だ。ただ陸上からはアクセスできない。
松江観光協会 美保関町支部のサイトから
島根半島42浦巡り再発見研究会のサイトに海上の空中から撮ったらしい写真があったが「写真複製禁止」となっていたのでURLを書くにとどめる http://42ura.jp/54.html
本当に義親は雲津浦に立てこもったのだろうか。どこかへおびき出されてだまし討ちにされた、という可能性の方が高いように思う。
義親は父義家譲りの豪勇で知られていた。一方正盛は白河院の近臣として急速に台頭してきたが武勇の誉れはなかった。その正盛の快挙になんか変だ、と思った都人もいたらしい。同様の疑惑は正盛の息子忠盛(清盛父)の海賊退治に関しても出てくる。西国の海賊を退治したと言って平家の家人にならなかったものを賊扱いしているのでは?と囁かれた。
忠盛には自分の利益のためなら手段を択ばないところは確かにある。肥前神埼荘、ここに宋船が入ってくる。大宰府の管轄であるから大宰府の役人がやってくるのだが、忠盛は拒む。院庁下文を示すのだが、なんとこれが偽造品。鳥羽院の追認を見込んでのことかもしれないが、公文書偽造も辞さない忠盛の姿勢が分かる。
義親と正盛との話に戻す。
疑惑は正盛と義親が談合し、義親を逃がし、別人を殺したのではないかという物だ。しかしこれは正盛にとってのメリットは大きいが、義親のメリットは見えてこない。正盛は合戦のリスクを回避し、勇猛義親を討ち取った名誉を得、恩賞も期待できる。義親は源氏の栄誉を地に落とし、自身を生ける影となし、反乱の賛同者への裏切りにもなる。父義家の死により源氏の棟梁への復帰は絶望的となり失うものの無い(だからこそ反乱を企てた)義親がただ命ながらえるだけにみえる正盛の提案を飲むだろうか?
しかし、この疑惑は長く燻る。以後20年に渡り義親の「偽物」が4人も現れるのだ。一人目と二人目は10年後、越後と常陸に現れる。越後の平永基の所に出入していた僧が義親と名乗っていた。国司に引き渡しを命じられた永基が斬った。永基は治承5年(1181)横田河原で義仲と対決する城資職の祖父である。
常陸に現れた「義親」は逃げるが、下野で捕まり京都へ送られ、殺される。白河・鳥羽両院が引見する騒ぎになったそうだが偽物とされた。
三人目は不思議な展開をたどる。義親と名乗る男が藤原忠実の鴨院に匿われた。鳥羽院の意向あっての事だという。会って本者という者あり偽者という者ありだったというが、分からないということがあるだろうか。20年近くが経過したとはいえ30代が50代になっただけだ、同世代の人がたくさんいただろうし、息子の為義もいる。義親の乱当時13歳の少年とはいえ幼児ではない。当然父親かそうでないかくらいはわかったろう。また忠実自身が義親を見知っていたと思われる。全くかかわりのない偽者を匿うだろうか、既に誅されたとして追討使正盛に恩賞まで出しているので本者とも言えず・・という状況に見える、
更に四番目の義親が大津に現れる。鴨院義親と大津義親が京都で互いに郎党引き連れ乱闘に及び、大津義親が殺された。
凱歌を挙げた鴨院義親だが、源光信が郎党を連れて鴨院を襲撃、義親を郎党もろとも殺害した、ということになっている。鴨院義親と大津義親の乱闘は光信邸前の出来事だったそうだが、義親?が居るとはいえ前関白屋敷である。この襲撃は余程義親の生存が都合の悪い輩=正盛を疑いたくなる。
もし偽義親の中で本物がいたとしたら3番目の鴨院義親が有力視されているようである。
私には義親が正盛と談合し逃げた、ということが信じがたいのではあるが、どちらかというと、一番目の越後義親が気になる。まず法師であった点、出雲から逃げ出す時点で出家するというのは自然な発想に思える。まず近くの大山寺辺りで頭を丸め、日本海側の沿岸を少しづつ北上すると越後だ。義親の乱が院近臣の国司とその威を借る目代への反感を背景にある程度以上の範囲の豪族たちを統合しての反乱であったならば、成功か不首尾かはともかく僧兵を擁した大山寺との提携は当然視野に入っていたろう。
それにしても、義親に関しては何が何だかわからない事が多すぎる。
この雲津浦には「かんから祭」というお祭りがある。江戸時代、この浦で疫病が流行った時、昔この浦で死んだ義親の祟りとされ、その霊を慰めるための祭りだという。ネットで見る限り、紅白に分かれて赤の平正盛・白の源義親方で赤勝て、白勝て、とやるらしい。それで霊を慰めることになるのか?と思うし、むしろ墓を何とかした方がいいのでは、と思ってしまうのだ。
海岸近くに諏訪神社という神社があったが、部外者立ち入り禁止となっていた。
集落には他に荒神社というのがあった。小さな集落だが神社2つ、寺一つを擁している。
松江市のサイトの中の、総合メニュー > 暮らしのガイド > 文化・スポーツ > 松江市史 >西田先生コラム「 源氏の御曹司、松江に死す」西田友広(中世史部会専門委員)このページを見つけなければ、私は雲津へ行ってみようとは思わなかったはずである。
http://www1.city.matsue.shimane.jp/bunka/matsueshishi/column-nishita.html