松江から帰途は、伯耆国府址 因幡国府址に寄ろうかという話である。昨日とは一変、天気は悪い。
実のところ、伯耆というのが出雲と因幡の間にあることを認識したのはこの旅の直近である。
因幡というのは出雲と隣接しているものとばかり思っていた。この思い込みはたぶんに「因幡の白兎」にあると思える。
兎がワニ(サメ?)をだまして海を渡り、最後に捕まり毛を剥がれる。更に大国主の兄神達に騙され泣いているところを大国主に救われる、という最も親しまれていると言っていいこの神話は出雲と深く結びつく。オキの兎は隠岐の兎、隠岐から一番近い本州の陸は島根半島、すなわち出雲に他ならない。出雲大社にも兎のモニュメントも数あり、因幡というより出雲のうさちゃんみたいだった。この話の類話は世界各地にあるらしい。だから別に隠岐・因幡にこだわることはないのかもしれない。むしろ普通名詞の沖・稲場でもいいわけだ。この話は兎とワニ 大国主と八神姫の結婚という二つが合わさってできたのだろうか。八神姫は因幡だから、兎も因幡の素兎と称されるのだろうか。素兎は毛皮剥がれて素っ裸の兎ということか、沖にいた時には黒兎か茶色かわからないということか。
ともあれ、出雲と因幡の間には伯耆がある。
平正盛は因幡の守だった時出雲の源義親を討ち取ったとされる。平忠盛は伯耆の守になっている。
松江から安来・米子を通り大山の北側を走る。あいにくの天気で大山は全く見えない。
伯耆国府は倉吉にある。鳥取県の西方海沿い近くを走っていると結構平野部のある印象なのだが、倉吉市は山の方へ入る。地名そのものが倉吉市国府に国衙址はある。
かなりの発掘調査をしたらしい、国庁そのものではないが付属施設らしい法華寺畑遺跡が一部復原整備されている。
伯耆守として山上憶良が赴任していたことがあり、歌碑があった。残念ながら伯耆での作歌は確認されていないらしく歌碑は「瓜食めば子ども思ほゆ・・」であった。憶良は貧窮問答歌なども知られるが、昨今の働き方改革とやらの関係からも次の歌が面白いように思う。
「憶良らは今は罷らむ子泣くらむ それその母も我を待つらむそ」
この歌は筑紫で詠まれたという。当時憶良は筑紫守、上官の大宰大弐は大伴旅人。旅人主宰の宴席から憶良が退出するときの歌だ。嫌味はなくさらっとユーモラスに言ってのけたのがさすがだ。
旅人は大酒飲みだ。何しろ「なかなかに人とあらずは酒壺に成りにてしかも酒に染みなむ」だ。
しかしこの二人は歌人同士として付き合い尊敬しあったようだ。
倉吉市街地を少し走る。ここも街並みが売りらしい。相撲の琴桜の出身地だ。
海岸近くの道路に戻り、鳥取市を目指す。因幡の国府も町名国府にある。ここも発掘済み、礎石と柱が復元されてある。
かなり開けたところにある印象だ。
因幡の守で著名なのは大伴家持。左遷だったそうだ。近くに万葉資料館があるが休館日だった。
因幡の守平正盛、因幡・伯耆・出雲の軍勢を率い義親と戦ったというがはてさて?
鳥取市街地でラーメンを食べ、鳥取道を佐用JCTまで走り中国道に乗る。山間部は雪だった。岡山県に入ると不思議と雪がなくなる。吉河(よかわ)JCTから舞若道、舞鶴は雪があった。