アグネス・スメドレー(1892-1950)
アグネス・スメドレーは、ミズーリ州の小作人の娘であった(一八九二年生)。 貧困が原因なのか、家庭はかなり荒れていたらしい。 一家は、西部開拓ブームに沸くコロラド州に移った。
同州には鉄道施設や鉱山の開発で多くの開拓民がやってきていた。 鉄道や鉱山事業では少数の大資本家と中間管理職に比較して、不釣り合いなほどの線路工夫や鉱夫を必要とした。
ミドルクラスのほとんどいない特殊社会は、共産主義思想の広まりに最適な環境だった。 それが西部開拓州コロラドにあった。 「労働者たちは、『この辺り(コロラド)では何もかもがロックフェラーの会社( Colorado Fuel & Iron Company )の所有物だ。 奴らが所有していないのは空気だけだ』と(自虐的に)語り合っていた」とスメドリーは回想している。
彼女も「 反ロックフェラー(反資本主義)」の風潮に染まった。一〇代後半にはコロラド同様に荒っぽいニューメキシコ州で補助教員として働き学費をためると、アリゾナ州、カリフォルニア州の大学で学んだ。 一九一六年にはニューヨーク州に移り、女権活動家マーガレット・サンガーの下で働き始めた。
サンガーは、「女性の主体的意思による受胎コントロール」を主張するフェミニズム運動の魁となる活動家だった。 スメドレーはニューヨーク大学での講義にも参加し、共産主義思想を深化させた。
彼女は、この頃、インド民族派の闘士ララ・ラジパット・ライのインド独立運動に参加した。 第一次世界大戦の最中だったこともあり、ドイツはインド独立運動を利用した英国弱体化を謀っていた。 ドイツがニューヨーク市を拠点にインド独立運動を指揮するライに資金提供していたのは知れが理由である。
米国は一九一七年四月、英国の側に立って大陸の戦いに介入した。 それだけに、ドイツの工作活動に敏感になっていた。スメドレーが支援していた組織(Friends of Freedom for India)はドイツから工作資金を受け取っていた疑いをかけられた。 彼女も逮捕されたが幸いにも不起訴となった。 ただ、組織の連絡網や組織内暗号符号を自宅に隠し、工作活動に関与していたことは確かだった(一九一八年)。 逮捕の翌年(一九一九年)、米国の資本主義に絶望しベルリンに移った。
ベルリンでも共産党系のインド独立運動に関わり、同地の指導者(Virendranath Chattopadhyaya)と事実婚状態となった。 ベルリン大学で英語を教えるかたわら、同大学のアジア文化研究講座を受講した。 この頃から複数の雑誌に寄稿を始め、モスクワに頻繁に旅した。 ベルリン時代には鬱病に悩み、病克服のために自己心理分析を始めた。 それが自伝的小説『 大地の娘(Daughter of Eath)』となった(一九二九年)。
小説執筆活動が功を奏したのか、彼女は強く生きることを決意したようだ。 一九二八年にはモスクワから、満州・北京・南京経由で上海に入り(一九二九年五月)、再び湧いてきた活力を武器に中国各地を旅した。 本来はインドに行きたかったが、英国の妨害があり、中国行を決めた。 言うまでもなく、コミンテルンの組織の手引きがあった。上海では地下に潜る中国共産党活動家と交流した。
上海では前年の四月、蒋介石による共産党弾圧があり、中国共産党員らは地下で活動していた時期である。 彼女はモスクワで、地下共産党員支援を始動されていたようだ。 彼女が上海警察の情報を探ったのはそのためであろう。中国へ旅立つ前、彼女はリベラル系の独紙フランクフルター・ツアイトウングと特派員契約を結んでいた。
同紙との関係は一九三〇年には切れるが、西洋ジャーナリストとしての立場を利用するのに役立った。 彼女の中国の第一印象はネガティブだった。
本で読んだヨーロッパ中世の世界を現実に見ているような感覚であった。 同時に、自身の育った荒くれた米国西部の開拓村を思い出させた。 しかし、彼女はそれを素直に伝えるジャーナリストではなかった。
貧しい中国の民に同情し、彼らを共産主義社会建設の希望に燃える生き生きとした生活者として描いて西欧社会に伝えた。
自身の生い立ちが生んだ資本主義への恨み(ルサンチマン)が、彼女の『報道』であった。
アグネス・スメドリー 中国共産党に尽くした女スパイー2: ゾルゲとの出会いと別れ
に続く