Anna Louise Strong
アンナ・ルイーズ・ストロング ( 1885年– 1970年)
・アンナ・ストロング:赤いアメリカのジャーナリスト-1 生い立ち
https://blog.goo.ne.jp/renaissancejapan/e/0bee76a2186e149983f1bb4760f410dd
・アンナ・ストロング:赤いアメリカのジャーナリスト-2 スターリンと毛沢東の広告塔
https://blog.goo.ne.jp/renaissancejapan/e/3cf026605349c36fbd68a6a2bcd0b3e5
・アンナ・ストロング:赤いアメリカのジャーナリスト-3 周恩来との蜜月
https://blog.goo.ne.jp/renaissancejapan/e/3261339636c9d16896dd105fffbf0456
からの続き
一九四九年、中国共産党へのあまりの肩入れをスターリンは警告した。 彼女を米国のスパイとして、ルビャンカ監獄に収容した。 この頃の彼女は、英字紙『モスクワ・ニューズ』の編集に携わっていた。
同紙の編集スタッフのほとんどが逮捕された。彼女の上司ミハイル・ボロディンも逮捕されている。ボロディンは一九二〇年代半ばには、孫文の政治顧問として容共思想の孫文を操った人物であった。
彼女は数日で解放されたが、国外追放となった。 スターリンの悪行をウォルター・デュランティ(ニューヨークタイムズ・モスクワ支局長)とともに擁護し続けてきた彼女が、共産主義思想の本質に気付く良い機会の筈であったが、そうはならなかった。
モスクワを追放されたストロングは、カリフォルニアに住んだ。 共産主義思想啓蒙の講演や不動産投資で暮らしていた彼女に、米国政府はパスポートの発給を拒否していたが、一九五五年、ソビエトが彼女への嫌疑を公式に抹消したことから、パスポートの発給を許した(一九五八年)。
それを待ちかねたように、ストロングは憧れの国、中共(中華人民共和国)に飛んだ。 彼女の夢の国家は一九四九年に成立していた。
七三歳になっていた彼女の訪中を、中国共産党幹部は喜んだ。 毛沢東は、彼女に共産党幹部に匹敵する処遇を与えた。 高級アパートに住まわせ、自動車や専属の料理人と秘書まで用意した。 海外の要人歓迎では、英語の堪能な彼女は良きホステス役となった。
日常生活では、タイプライターに向かい、「新生中国が労働者の楽園であり、晩年を送るには理想の国(ideal resting place)」と礼賛する西側世界への手紙(Letter ffrom China)を書き綴った。 もちろん、このような待遇は、毛沢東に愛されたアンナ・ストロングだけの話である。
「中国では、年寄りは尊敬され大事にされる。 米国は老人を放置し、勝手に死ねという態度である」といったデタラメを垂れ流した。 紅衛兵が荒れ狂った文化大革命も彼女は容認(礼賛)した。
毛沢東は、そんな彼女が可愛くてならなかった。 彼女の八〇歳の誕生日では、盛大なパーチを催した。その四年後ストロングは亡くなった(一九七〇年)。 国葬とされた彼女の遺体はスメドレーと同じく、北京八宝山革命共同墓地に眠る。
葬儀に列席した周恩来の腕には『アンナ・ストロングを永遠に忘れない(May Annna Strong Live Foever in our Memory)』 と書かれた腕章が巻かれていた。
END
(関連情報)
・アンナ・ストロング:赤いアメリカのジャーナリスト-1 生い立ち
https://blog.goo.ne.jp/renaissancejapan/e/0bee76a2186e149983f1bb4760f410dd
・アンナ・ストロング:赤いアメリカのジャーナリスト-2 スターリンと毛沢東の広告塔
https://blog.goo.ne.jp/renaissancejapan/e/3cf026605349c36fbd68a6a2bcd0b3e5
・アンナ・ストロング:赤いアメリカのジャーナリスト-3 周恩来との蜜月
https://blog.goo.ne.jp/renaissancejapan/e/3261339636c9d16896dd105fffbf0456
・アンナ・ストロング:赤いアメリカのジャーナリスト-4 毛沢東が愛した西洋
女アンナ・ストロン
グの死https://blog.goo.ne.jp/renaissancejapan/e/a4753974e2f3c0bed3102853a2228763
・アグネス・スメドレー 中国共産党に尽くした女スパイ 全記事
https://blog.goo.ne.jp/renaissancejapan/e/3a379720a527757e620a92167b23a969