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アンナ・ストロング:赤いアメリカのジャーナリスト-1  生い立ち

2024-11-16 19:11:35 | 世界史を変えた女スパイたち



アンナ・ルイーズ・ストロング
(1885-1970)

 

アンナは一八八五年、ネブラスカ州フレンド市に生まれた。 両親は会衆派教会(Congregational Church) の信者で宣教活動にも熱心であった。 

彼女は相当に切れ者だったらしく、セブンシスターズの一角を成す 名門ブリンマー大学で学び、シカゴ大学で博士号(哲学)を取得した(ニ三歳)。 

博士論文『祈る者の心理(The Psychology of Prayer)』によって当時の大学では最も若い女性による博士号の取得だった。 卒業後は児童福祉行政に熱心に取り組み、彼女の講演には多くの聴衆が押し寄せた。

しかし、次第に資本主義制度では彼女の望む児童福祉行政は達成できないと落ち込むようになる。 父親がシアトルに移り会衆派教会の牧師になると、彼女も同市に移り父親と暮らした(一九一四年)。 シアトルは、現在でもそうだが、左翼勢力が強く労働組合活動が盛んである。 それが彼女には魅力であった。

 

一九一六年には同市教育委員に選出された。 徴兵制に反対し米国のヨーロッパへの戦いへの介入を批判した。 翌一七年にロシア革命成功の報を聞くや彼女の活動は活発化した。

一九一九年二月六日、同地の労働組合系新聞『ユニオンレコード』紙に寄稿し、労働者によるストライキを煽り、ソビエト式革命を訴えた。 これに呼応するようにシアトルでゼネストが起きた(二月六日~一一日)。 賃上げ要求がキッカケだった。 彼女の望みはボルシェビキ(過激派共産主義)的革命だったが、意に反して五日で終息した。

 

意気消沈する彼女に再び活力を与えたのは、この翌年にシアトルで行われたリンカーン・ステフェンズ(Lincoln Steffens、一八六六~一九三六)のスピーチだった。 彼はロシア革命を強烈に支持する社会主義ジャーナリストであった。 革命後のロシア訪問から帰国したばかりで、自らの眼でみてきた『労働者の楽園』を語った。

その公演に触発されたアンナはただちにロシア行きを決めた。 当時の米国は赤いロシアを国家承認していなかっただけに、同地の情報は民間人(ジャーナリスト)によるレポートだけが頼りだった。 

米国の新聞はそうした情報を欲しがり、彼女には数少ない西洋人ジャーナリストとしての需要があった。 それが彼女のモスクワ生活を支えた。

 

 

 

 

 

アンナ・ストロング:赤いアメリカのジャーナリスト-2  スターリンの広告塔


に続く

 



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