(つづき)
宝満山正面登山道を登っています。 内山林道終点からの登山口です。
なお正面登山道一合目は、山の図書館の近くの登山口(式部稲荷)でした。
登り始めから、 自然の石で造られて、かなり崩れた石段が連続していました。
早くも宝満山頂上からの下山者と出会いました。早朝6時頃に出発されたそうです。
大きな石の鳥居が見えてきました。
二合目 一の鳥居 に着きました。
周辺には、大きく咲いたシャクナゲが登山者を楽しませてくれました。
石灯籠や狛犬などと同じ位の鷹さのシャクナゲが、牡丹の花のように大きな花が沢山咲き乱れていました。
これだけ見事なシャクナゲのお花畑になるのには、
何十年ものの年月と手入れがかかっていると思われます。
すばらしい シャクナゲ に元気を付けてもらって登山を続けます。
ほぼ頂上までこのような石の階段が続くようです。大丈夫でしょうか?
大丈夫。逆にファイトが涌いて来るわよ。と強気の仲間達です。
登山道の脇に大きな亀石が有りました。
頭をもたげ、亀甲模様もきれいに入り、良く似ていました。
更に石や岩をひとつ、ひとつ 踏みしめて、登り続けました。
宝満山頂迄1.4km、三郡山頂迄3.9kmの標識を通過。
ジグザグの岩階段を力強く登っています。
沢山の若い登山者がどんどん先へ登って行きました。
三合目 の 徳弘の井 と云う、水量の多い水場が有り、ベンチも有ったので休憩しました。
他のグループも、飲むだけでなく、料理や飲み物用にペットボトルなどに水の補給などしていました。
濡れたら怖そうな一枚岩の急斜面の狭い道を慎重に歩きます。
曇っていた上空は、太陽光線が射して来て、少しづつ青空も覗いてきました。
四合目 の道標を通過。
背後の山の斜面には、去年の三月に、10本のシャクナゲが植樹されていました。
早いものは花を付けていました。
近くでは ササユリ が成長中
周りには コシアブラ の若葉も伸びていました。
サンヨウアオイ
自然石の階段は続きます。
大きな マムシグサ が群生していました。
救急用の薬などが揃った、救急箱 が置いて有る休憩場所が有りました。
宝満山を愛する先人のプレゼントだそうです。
休憩後また急登を登ります。
梯子のような丸太の橋で、深い渓流を渡ります。
沢山の下山者とすれ違いました。
宝満山頂上迄あと1000mの道標を見て、岩場を登り続けました。
途中幾つかの場所で、九大ワンゲル隊の5~6グループの大群と出会いました。
さすがワンゲルだけに登る速度が速やかった。
五合目の道標(右)と殺生禁断の石碑を通過します。
西方に 四王子山脈 が見えました。665年白村江の敗戦後、建てられた大野城、土塁など、
古代の遺跡が多く残っているそうです。
六号目 (吉田屋屋敷)を通過
目の前に長い石の階段が見えて来ました。
噂の、100段ガンギです。
ここは、胸突き八丁 一番疲れが出てくる南関の登山道。
大木の影で一休みしました。
休まず、登りつける健脚の女性もいました。
西院谷 「 この付近一帯には、九坊の坊跡があります 」 と書かれていました。
七合目 (閼伽の井)の道標
松屋レディスが起源600年を記念して造ったが、一度も使われなかった岩窟ホテル跡 だとか。
石垣の内部から閼伽の井広場 方面を見ました。
ゆっくり休憩をした後、頂上へ出発します。
次々と登山客が登ってきています。
頂上迄、あと700m
苦しい不揃いの石段が続きます。
芭蕉の句碑
世の人の 見付けぬ花や 軒の栗
或る僧侶の隠遁生活を呼んだのだそうです。
芭蕉の句碑を過ぎるとすぐに 竈門山碑 と刻まれた、大きな石碑の建つ広場(中宮跡)に着きました。
その 竈門山碑 の裏側に回ってみました。
他のグループも次々に登ってきていました。
古くなり読み辛い 中宮跡 の説明板です。
説明板によると、宝満山で修験道が盛んだったころ、この場所は中宮といわれ、
この山の本地仏十一面観音を祀る大講堂を中心に神楽堂、鐘楼、法華塔、
九重塔、黒田家寄進の鳥居、毘沙門などの小祠が立ち並び山伏の修法の中心地であったが、
明治初年の廃仏毀釈により取り壊され茅野となってしまったとのこと。
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その大講堂は、四間半四方で屋根はクヌギで葺かれており、
講堂前の広場では、護摩の火が焚かれ加持祈祷が行なわれていたそうです。
(つづく)