雲跳【うんちょう】

あの雲を跳び越えたなら

安心したがる人々/曽野 綾子

2010-12-19 | 小説
             

 絲山秋子さんや、佐野洋子さんなど、どうやら自分は辛辣な女性が好みのようだ。いや、正しくは辛辣な考えを持っている女流作家さんが好き、だ。
 実際に、こんな辛辣な思考を持っている(そしてそれを平然と言ってのける)女性とは到底お付き合いできないと思う。もう、読むだけで満たされる。
 そういった女流作家さんの最たる人物とでも言おうか、齢八十近くにおいてますます辛辣さに磨きがかかったというか、いや相変わらぬ感受性をお持ちの曽野綾子女史の最新エッセイ集を読んだ。
 とにかくもう、読んでいるこちらがハラハラさせられるようなことをズカズカ書いておられる。それはまさに「痛快」なことこの上ない。
 それはまあ、ようするに、自分の思っていたこと、考えていたことなどが合致するからこそなのだろうけど、やっぱりこういう文章を書く人には敵も多いのだろうなぁ……と思ったりもする。
 なんせ、ファンの一人である自分でさえ、読み進むに従って、「もしかして、この人って、ただの偏屈バァサンなだけじゃねーの?」と思えてくるくらいだから。
 しかしながら、その偏屈で辛辣な性質の中にあるド太いしっかりとした倫理の芯を感じ取れるので、「やっぱすげぇなぁ……」と感嘆してしまう。

 こういう文章があった。

『しかし谷選手(柔道)のこれまでの生活が、それほど偉いとは、私は思わない。
 母親としての暮らしと厳しい選手としての生活とを同時にやってのけたことは、確かに意志の弱い人にはできないが、その程度の辛い生活に耐えた人は世間にいくらでもいる。
 谷選手には、その厳しさに華々しく報いられる場があった。
 しかし年老いてぼけた自分の母親を、何十年も介護し続け、ほとんど自分の人生を犠牲にしながら、誰からも注目されず、もちろんメダルももらわなかった人の方が、私はずっと偉人だと思うのである。』


 今でこそ、谷亮子はボロクソに言われているようだが、この文章が書かれた時は、まだ「ヤワラちゃん」も世間から脚光を浴びていた時である。そんな時期にこういうふうに言ってのけることも凄いのだが、なにより、そこに書かれていることが真実であるということだ。
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本当はちがうんだ日記/穂村 弘

2010-12-19 | 小説


 菓子パンが主食の四十過ぎのオッサンのどうしようもなく哀れで切ないエッセイ集……。
 と、いうわけでもなく、なんだかとにかくおもしろい。まったくもって、この人の言い分(というか言い訳)を読んでいると、イライラしてもくるし呆れ果てたりもするのだけれど、なんでだか、最後には「ふふっ」と微笑っている自分がいる。はっきりいって自分自身が気持ち悪い。なにが気持ち悪いかって、この自意識過剰過多で菓子パン好きのマニア系のオッサンにかなり共感してしまえているのだから……。
 正直、今いちばん会いたい人かもしれない……いや、自身の名誉にかけてやっぱいちばんとか言いたくない。
 けど、あったら言ってしまうだろう

「わ、わかりますよ……(泣」

 と。


 哀しくも切なく、そしてこの上なく可笑しい。人生に卑屈な人は必ずや共感せられるであろう穂村弘の言葉は、寂しい自分をより寂しくさせる珠玉の翳りに溢れている。
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新規投稿

2010-12-19 | 雑記
 このところ、なかなか投稿できないのでケータイからでも投稿してやろうと試みるのだが、数行打つと親指がだるくなる。それと、自分は基本的に長文を書いていると当初の目論見とは違う方向に行ってしまうことが多々あり、「あれ? さっきまでナニ書いていたっけか?」と読み直すこと甚だしく、まったくもって画面をスクロールさせるのが面倒くさい。そうして意味不明な繋がりをまとめ直すのも厄介なことこの上ない。これがパソ画面ならある程度ズラッと見渡せるのでなんとかなる。しかしながらその性質はハードが違えど変わることもあるはずもなく、ただただ徒然と書くばかりである。
 そこにもってきて久しぶりの新規投稿ともなると、いったいナニをかけばいいのやら? マスでも掻いてお茶を濁すばかりである。いや、そればっかりでもないのだが、そればっかりできればそれはそれで、またよしであるし、股もよろし。
 
「書く」という作業能力が、ちょっと追いやられている感じがする。こういうのはやっぱり、続けていなければ衰えるものなのだと、つくづく実感せられる。というか、「書く」ことだけではなく、「読む」や「聞く」、「見る」などの作業においても然り、かと思う。
 もちろん、日常生活においてのそれらには特に支障をもたないが、日常から切り離された具合の、非日常性を伴なった特殊な感性を強いられる物事というものは、やはり「鈍り」が出てきてしまう。
 そりゃ別に、「そんなの気にせずに、書けばいいし、読めばいいし、聞けばいいし、見ればいいじゃん」と言われればそれまでの話なのだが、どういった性質なのか、自分はどうもそういうのを蔑ろにできないようで、「さらっと流す」的なことができない。
 具体的に言えば、なんのスジも見つからないのに文章を駄々書きするだとか(いや、今まさにソレだけど)、漫画や小説を区切りの悪いところでやめてしまうとか、車の中で聞いている最中のCDを曲の途中で替えるだとか、映画を途中から観るだとか(そしてもちろん、エンドロール途中で席を立つなどもってのほか)そんな性質であるので、実際、自分自身でも面倒くさいこともある。
 が、しかし。そのぶん、何事にも気を入れて取り組んでいるのでそれらに対しての感慨等は後々までもかなり残っているといえる。
 それが、このところ、思うようにいかない、というか、鈍ってきていると実感せらるので、それらの物事に取り組むことに躊躇してしまう。というより、なんだか、めんどくさい。
 しかしそれでも、欲求はある。

 だからこうして、ぐだぐだながらも新規投稿を試みた次第である。
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