日本では中堅レスラーのイメージが強いが、アメリカではトップ中のトップに君臨した。レイ・スチーブンスとのタッグではサンフランシスコ地区の王座を長期間保持し、その活躍が通じて1968年には日本プロレスの「第10回ワールド・リーグ戦」に初来日。確か4勝4敗の星を残したと記憶するが、この頃からダークホース的な存在だった。その後は新日本プロレスに参戦し、ジョニー・パワーズとの北米タッグ王者として勇姿を見 . . . 本文を読む
ハワイ出身の巨漢レスラーで、カメハメハ王朝の血筋を継いでいる名門の出。デビュー当時はプリンスを名乗り、そのフライング・ボディプレスは、フライング・ソーセージと称された。力道山時代に初来日し、全日本プロレスの「第1回チャンピオン・カーニバル」で太平洋岸王者として参加した際は、キングを名乗った。同シリーズは、ベルトを持っていることが出場の条件だった。この頃から凶悪ぶりに拍車がかかり、流血大王の名を . . . 本文を読む
昭和44年の「第11回ワールド・リーグ戦」で全くのノーマークだった選手が決勝に進出し一躍、アントニオ猪木のライバルに急浮上したのがクリス・マルコフだった。ブラッシーに代表される金髪のヒールだったがそれ以降、マルコフはトップ外国人の地位を確立。タイガー・ジェット・シンばりのスリリングなラフ・ファイトはインパクトがあった。
私は全日本プロレスに来日した昭和49年に接することが出来たが、髪の毛は金髪 . . . 本文を読む
ベネズエラ出身でボクサーの経験もあった実力者。日本プロレスの「第6回ワールド・リーグ戦」に初来日し、凱旋帰国したジャイアント馬場と45分時間切れを演じ一躍その名を知らしめた。私が印象に残っているのは昭和43年の「ゴールデン・シリーズ」に外国人サイドのトップで来日。あのマスカラスで代表されるサメ口マスクは強烈なインパクトがあり、デストロイヤー以上の存在感を見せた。そうマスカラス以前にサメ口を使っ . . . 本文を読む
アマレスの猛者からプロ入りし、ジノ・マレラの名で日本プロレスの「第5回ワールド・リーグ戦」に初来日。帰国後、WWWFで満州出身のゴリラ・モンスーンに変身。ブルーノ・サンマルチノのライバルとして浮上し、トップ・レスラーの仲間入りを果たした。サンマルチノとの友情物語は有名だ。
また馬場のライバルでもあり、日本プロレス時代にはインターナショナル選手権や「第14回ワールド・リーグ決勝」で激突。アルゼン . . . 本文を読む
ぶっ壊し屋、粉砕者の異名をほしいままにした大悪党、それがザ・クラッシャーことクラッシャー・リソワスキーだ。1950年代にデビューしスタン・リソワスキーとの兄弟タッグで活躍。60年代はAWAを主戦場に何度も世界ヘビー級王座を獲得。まるでギャングの親分みたいな風貌で、ビールをラッパ飲みし、肉体が凶器そのものだった。
日本プロレスに初来日し、2度目の来日を果たした1968年1月3日の蔵前国技館でジャ . . . 本文を読む
”狂犬”を自らリングネームにし、その名を知らしめた実力者それがマッドドッグ・バションだ。カナダ出身でロンドン・オリンピックの代表に選ばれたが、プロレス入りでは微塵も感じさせない大ヒールに転身。AWA圏ではバーン・ガニアのライバルとして、世界王座を何度も奪取。
弟のブッチャー・バションとAWA世界タッグ王者となり、日本でもその勇姿を見せてくれた。国際プロレスではIWA世界ヘビー級、同タッグを獲 . . . 本文を読む
突然、取材のアポが取れ、あの”白覆面の魔王”ザ・デストロイヤーに会うことができた。実際に会うのは少年時代以来だから、実に30数年ぶり。前日から、まるで少年に戻ったかのようにドキドキモード。私たちの世代にとってデストロイヤーは大ヒールで、憧れの存在だったから、もうリスペクトに値する。
デストロイヤーさんは、一つ一つの質問に丁寧に答えてくれたから、時間は瞬く間に過ぎた。今年で78歳になるというのに . . . 本文を読む
”地獄の料理人”と呼ばれたハンス・シュミットは、1940年代にデビューし70年代まで活躍し、元祖シュミット・バックブリーカーの使い手として知られ、ドイツ系らしい冷血なファイトがモットーの実力者だ。アメリカではUSヘビー級王者として、それなりの実績と知名度があったが日本での評価はイマイチ。シュミット・バックブリーカーの代表的な使い手というのが、唯一最大の売り物だった。
67年に日本プロレス、68 . . . 本文を読む
”黒い毒グモ”と呼ばれ、長い手足と長身から繰り出すダイナミックなファイトで活躍。もっともアメリカン・フットボールでは、オールスター戦にも出場したほどの花形選手だっただけに、プロレス入り後はその知名度がかなり影響した。アメリカではビッグネームだったが、日本では大成しなかった代表格。
ロッキー・ジョンソンと共に日本プロレスに初来日。ゴング誌が来日前に、未知の強豪と煽っていたため、私は少年心にワク . . . 本文を読む
”マットの魔術師”と呼ばれ、スカイロケットと称したドロップキックと、巧みなオコーナーズ・ロールアップ(ローリング・バッククラッチ)で一世を風靡。米国マット界の重鎮的な存在だったのがパット・オコーナーだ。何より、ディック・ハットンを破り第42代NWA世界ヘビー級王者になったことでプロレス史に、歴然と名を残しているのだ。
日本では力道山時代に1度来日し、インター王座に挑戦。その後は旗揚げ当初の全日 . . . 本文を読む
黒い核弾頭と言われたプエルトリコ出身の実力者。同郷のペドロ・モラレスに憧れ、この世界に入った。若手時代は猪木のライバル的存在で、初来日ではジャック・ブリスコと共に将来を嘱望された。60年代後半から、長くニューヨーク地区で活躍。トニー・マリノと組み、WWWF世界タッグ王者に君臨し、ロス地区ではアメリカス王者にもなった。
得意技はサマーソルト・ドロップとドロップキック。特にサマーソルト・ドロップ . . . 本文を読む
”金髪の妖鬼”と称され、まさに大物という雰囲気が体中から発散していたのがジョニー・バレンタインだ。20代の頃はハンサム・フェイスで、ニューヨーク地区の人気者だったが、年輪を重ねるごとに威圧感が増してきた。
アントニオ猪木の日本における最初のライバルで、このバレンタインとの死闘で猪木が大きく羽ばたいたのだ。得意技はブレーン・バスターと呼ばれた、エルボー・スタンプ。相手の後頭部めがけて、頭蓋骨を . . . 本文を読む
”大巨人”、”一人ガリバー旅行記”、”世界8番目の不思議”などの代名詞を持ったアンドレ・ザ・ジャイアントは、70年代から80年代に掛け世界で最も売れっ子のレスラーだった。何しろWWFと契約しながら、ビンス・マクマホン・シニアがその身柄を束縛せず、各テリトリーに出場させていたという。アンドレはどこの団体でも、特別待遇だったのだ。
私は国際プロレス時代のモンスター・ロシモフから見ていたが年々、体 . . . 本文を読む
”殺人狂”、”耳削ぎ事件”、”菜食主義”といったキーワードを持つキラー・コワルスキーは、その昔は少年漫画のプロレス物語には必ず登場した。殺人ニードロップでユーコン・エリックの耳を削いだとされるのは、1950年代の出来事。これがコワルスキーの代名詞になって、そのショックで肉が食べれなくなって菜食主義になったという。
初来日で「第5回ワールド・リーグ戦」に参戦し、あの力道山と優勝を争った。その後 . . . 本文を読む