こんばんは。4年の菅原恵です。
先日、体育会本部からの依頼で、池袋キャンパスのチャペルにおいて「学生は語る」というイベントで、短いながら講演をさせていただく機会がありました。
「学生は語る」というのは、体育会に属している4年生が、各々これまで部活を中心とした大学生活を踏まえたうえで、考えたこと、思うこと、大切にしていること、後輩に伝えたいこと...それらを、形はどうあれ言葉にして、10分~15分程度語るというものでした。レポート課題に例えるなら、タイトル「体育会とは」、字数制限なし~10000字、といったところでしょうか。
せっかくの機会なので、一人の人間として、そして一ボート部員として、また一大学生として語ってきました。今回はその中でも3点にしぼって語ってみました。
それは、「ボート部」・「自由」・「出会い」についてです。
「学生は語る」後、ありがたいことに色々な方から、講演内容を何度も尋ねられました。そこで、今回の日記では、語った内容のうちの1つ、「出会い」について書きたいと思います。残りの2つに関してもし興味があれば、私のところまで訪ねてください。
みなさんは何歳まで生きたいですか?
3年のマモルは60歳まで生きたいと言いました。2年のTAKUは90歳、そしてチャプレンの宮崎さんは80歳と仰いました。
ここでは、日本人の平均寿命である80歳で考えてみたいと思います。ちなみにロシア人であれば70歳、エチオピア人であれば60年、シエラレオネ人に至っては35歳が平均寿命です。
さて、80歳はどのくらいの時間なのでしょうか。漠然としているので秒にしてみたいと思います。
計算してみると、80年×365日×24時間×60分×60秒≒25億秒 でした。
つまり、私たちは25億秒の砂時計のもと生きています。25億という数字が多いか少ないかの議論は置いておくとして、もう一つ考えてみたいと思います。
地球の人口はどのくらいでしょうか?
私が小学生のころ、地球の人口は60億人と習いました。
3年前の2012年、70億人を超えたと聞きました。
そして、現在では72億人だそうです。
また、東京オリンピックが開催される2020年には、77億人になるそうです。
ここでは、75億人と過程して考えてみたいと思います。
先ほど、人生は25億秒と計算しました。産声をあげた瞬間から、息を引き取る瞬間までが25億秒ということです。
仮に、私たちが生まれた瞬間から死ぬその瞬間まで、寝る間も食べることも飲むことも惜しみ、1秒間に1人のヒトと出会ったと仮定すると、一生涯で25億人のヒトに巡り合えることになります。とてつもない人数のヒトに出会えますね。しかし、考えてみてください。1秒間に1人のヒトと出会えたとしても、物理的に全人類と友達になることはできないのです。50億人以上のヒトに出会えうことができません。3分1しか出会うことができません。
それなのに、出会ってもいないヒトについて私たちは、肌の色・信じる神・文化、その他諸々、教養という名の一種の偏見をもってカテゴリー化しています。
1秒間に1人は極端な例でした。
では、1日1人のヒトに出会うことを考えてみましょう。これならありえそうですね。1秒間に1人よりは現実味を帯びてきました。
そうすると、80年×365日≒3万人のヒトに巡り合えることになります。
3万人…地方の村や町レベルでは太刀打ちできないかもしれません。新宿区の投票数にははるかに及びませんが…。
しかし、また考えてみたいと思います。仮に、日本に生まれ、一度も海外に行くこともなく、日本で育ち、働き、そして日本で死んだとしても、日本の人口1億2千万人のうち、たったの3万人にしか出会うことができません。これは、4000分の1の確率です。
つまり、目の前のヒトと出会える確率は4000分の1です。皆さんの友達、ボート部の仲間、学校のイツメン、みな4000分の1から選ばれた、私たち自身が選んだ、4000分の1を勝ち続けたヒトたちなのです。仏教ではこれを縁があったと言います。
あなたと私の出会いは奇跡です。面と向かっては、恥ずかしくて口が裂けても言えませんが、そういうことなのです。
それなのに私たちは、些細な考え方の違いから言い争い、傷つけあい、そして縁を切る。もちろん嬉しいとき、楽しいときも共に分かち合うことだって忘れてはいけません。それでもなお、キツイ一言をヒトにぶつけてしまう私たちを、何とかすることはできないのでしょうか。
それは、本当に怒ることなのでしょうか。大したことないのではないでしょうか。言い方を変えるだけでも、幾分か楽になるのではないでしょうか。一度、その言葉を口にする前に、自分自身に対して問いかけてみたいものです。
「それで良いのか」と。
「奇跡的な出会いを突発的な怒りでなかったことにするのか」と。
そうしないと、もったいないと思います。
もし、仮にすべての人間が、このように考え行動することができたら、世界平和は訪れなくとも、隣人を愛することは可能な世の中になるかもしれませんね。
まずは、一人の人間として当たり前にできること、あいさつ、そして感謝。この2つを大事に今日を生きたいと思います。
以上、長々とありがとうございました。
おやすみなさい。
先日、体育会本部からの依頼で、池袋キャンパスのチャペルにおいて「学生は語る」というイベントで、短いながら講演をさせていただく機会がありました。
「学生は語る」というのは、体育会に属している4年生が、各々これまで部活を中心とした大学生活を踏まえたうえで、考えたこと、思うこと、大切にしていること、後輩に伝えたいこと...それらを、形はどうあれ言葉にして、10分~15分程度語るというものでした。レポート課題に例えるなら、タイトル「体育会とは」、字数制限なし~10000字、といったところでしょうか。
せっかくの機会なので、一人の人間として、そして一ボート部員として、また一大学生として語ってきました。今回はその中でも3点にしぼって語ってみました。
それは、「ボート部」・「自由」・「出会い」についてです。
「学生は語る」後、ありがたいことに色々な方から、講演内容を何度も尋ねられました。そこで、今回の日記では、語った内容のうちの1つ、「出会い」について書きたいと思います。残りの2つに関してもし興味があれば、私のところまで訪ねてください。
みなさんは何歳まで生きたいですか?
3年のマモルは60歳まで生きたいと言いました。2年のTAKUは90歳、そしてチャプレンの宮崎さんは80歳と仰いました。
ここでは、日本人の平均寿命である80歳で考えてみたいと思います。ちなみにロシア人であれば70歳、エチオピア人であれば60年、シエラレオネ人に至っては35歳が平均寿命です。
さて、80歳はどのくらいの時間なのでしょうか。漠然としているので秒にしてみたいと思います。
計算してみると、80年×365日×24時間×60分×60秒≒25億秒 でした。
つまり、私たちは25億秒の砂時計のもと生きています。25億という数字が多いか少ないかの議論は置いておくとして、もう一つ考えてみたいと思います。
地球の人口はどのくらいでしょうか?
私が小学生のころ、地球の人口は60億人と習いました。
3年前の2012年、70億人を超えたと聞きました。
そして、現在では72億人だそうです。
また、東京オリンピックが開催される2020年には、77億人になるそうです。
ここでは、75億人と過程して考えてみたいと思います。
先ほど、人生は25億秒と計算しました。産声をあげた瞬間から、息を引き取る瞬間までが25億秒ということです。
仮に、私たちが生まれた瞬間から死ぬその瞬間まで、寝る間も食べることも飲むことも惜しみ、1秒間に1人のヒトと出会ったと仮定すると、一生涯で25億人のヒトに巡り合えることになります。とてつもない人数のヒトに出会えますね。しかし、考えてみてください。1秒間に1人のヒトと出会えたとしても、物理的に全人類と友達になることはできないのです。50億人以上のヒトに出会えうことができません。3分1しか出会うことができません。
それなのに、出会ってもいないヒトについて私たちは、肌の色・信じる神・文化、その他諸々、教養という名の一種の偏見をもってカテゴリー化しています。
1秒間に1人は極端な例でした。
では、1日1人のヒトに出会うことを考えてみましょう。これならありえそうですね。1秒間に1人よりは現実味を帯びてきました。
そうすると、80年×365日≒3万人のヒトに巡り合えることになります。
3万人…地方の村や町レベルでは太刀打ちできないかもしれません。新宿区の投票数にははるかに及びませんが…。
しかし、また考えてみたいと思います。仮に、日本に生まれ、一度も海外に行くこともなく、日本で育ち、働き、そして日本で死んだとしても、日本の人口1億2千万人のうち、たったの3万人にしか出会うことができません。これは、4000分の1の確率です。
つまり、目の前のヒトと出会える確率は4000分の1です。皆さんの友達、ボート部の仲間、学校のイツメン、みな4000分の1から選ばれた、私たち自身が選んだ、4000分の1を勝ち続けたヒトたちなのです。仏教ではこれを縁があったと言います。
あなたと私の出会いは奇跡です。面と向かっては、恥ずかしくて口が裂けても言えませんが、そういうことなのです。
それなのに私たちは、些細な考え方の違いから言い争い、傷つけあい、そして縁を切る。もちろん嬉しいとき、楽しいときも共に分かち合うことだって忘れてはいけません。それでもなお、キツイ一言をヒトにぶつけてしまう私たちを、何とかすることはできないのでしょうか。
それは、本当に怒ることなのでしょうか。大したことないのではないでしょうか。言い方を変えるだけでも、幾分か楽になるのではないでしょうか。一度、その言葉を口にする前に、自分自身に対して問いかけてみたいものです。
「それで良いのか」と。
「奇跡的な出会いを突発的な怒りでなかったことにするのか」と。
そうしないと、もったいないと思います。
もし、仮にすべての人間が、このように考え行動することができたら、世界平和は訪れなくとも、隣人を愛することは可能な世の中になるかもしれませんね。
まずは、一人の人間として当たり前にできること、あいさつ、そして感謝。この2つを大事に今日を生きたいと思います。
以上、長々とありがとうございました。
おやすみなさい。