最近、「歌」に関連する本を読む機会が増えた。
ポップスではなくて、「和歌」や「俳句」だ。
これは、明らかに新しい仕事からの影響。
読書の枠が広がるような仕事が、私にとっては「いい仕事」なんだろうと思う。
その影響ではないのだけど、先日、従弟とお酒を飲んだときに、
「学校で勉強する国語ってさ~」となり、特に古典に話が及んだ。
和歌なんて、ほとんどが誰かさんと誰かさんの恋文のやりとり。
いまでいうと、恋人同士のメールのやりとりが漏洩して、後の世に残ったようなもの。
たまたま1000年後に10代を迎えた若者が、
他人の恋のつぶやきを、ものすごく真剣に品詞分解しながら読む。
点数までつけられちゃう。これってどうなの、と。
確かにそうだ。
そう考えると、漢文には天下国家を論じたものも結構多いけど、
日本の古典は、恋愛話が多いように思う。
受験のためには現代語訳の源氏物語を読んでおくべき、と言われたりするから、
「恋愛ばっかり」という印象は、源氏物語のせいもあるんだろうな、とは思う。
平家物語とか狂言なども学んだはずなんだけど、なんだか印象は恋愛に偏っている。
「歌」に話をしぼるなら、最近、松尾芭蕉が気になっている。
そして、数冊の本を読んだ結果、
源氏物語よりも、奥の細道に重点がシフトしたらいいのに、と思うようになった。
「歌」が中国の真似でも、恋愛感情でもなく、
日本人の日常や風土、つまり日本らしさに対する率直な表現、
つまり、日本人の心にある哲学が、松尾芭蕉という人物によって言葉として結実した。
そんなふうに思ったりする。
私は文学者ではないし、ちらりと本を読んだことがあるだけなので、
あくまでも、なんとなくの印象なんだけど。
松尾芭蕉の歌には、目に見える景色と心の中に広がる空間、
過去と現在と未来の関係が凝縮されている。
これは、哲学の領域の話だ。
どんな中国の古典をふまえて表現しているかを考えながら読む古典もいい。
それもひとつの教養だし、日本の文化だ。
でも、もっと重要なのは、毎日の空気の中で感じる日本人にしかない心、
日本人なら、ふと共有できる感覚といったものを、
言葉として表現し、それを受け止めることではないだろうか。
長谷川櫂氏の『「奥の細道」をよむ』(ちくま新書)を読み、
次は、西行さんでも読んでみたくなった。
ポップスではなくて、「和歌」や「俳句」だ。
これは、明らかに新しい仕事からの影響。
読書の枠が広がるような仕事が、私にとっては「いい仕事」なんだろうと思う。
その影響ではないのだけど、先日、従弟とお酒を飲んだときに、
「学校で勉強する国語ってさ~」となり、特に古典に話が及んだ。
和歌なんて、ほとんどが誰かさんと誰かさんの恋文のやりとり。
いまでいうと、恋人同士のメールのやりとりが漏洩して、後の世に残ったようなもの。
たまたま1000年後に10代を迎えた若者が、
他人の恋のつぶやきを、ものすごく真剣に品詞分解しながら読む。
点数までつけられちゃう。これってどうなの、と。
確かにそうだ。
そう考えると、漢文には天下国家を論じたものも結構多いけど、
日本の古典は、恋愛話が多いように思う。
受験のためには現代語訳の源氏物語を読んでおくべき、と言われたりするから、
「恋愛ばっかり」という印象は、源氏物語のせいもあるんだろうな、とは思う。
平家物語とか狂言なども学んだはずなんだけど、なんだか印象は恋愛に偏っている。
「歌」に話をしぼるなら、最近、松尾芭蕉が気になっている。
そして、数冊の本を読んだ結果、
源氏物語よりも、奥の細道に重点がシフトしたらいいのに、と思うようになった。
「歌」が中国の真似でも、恋愛感情でもなく、
日本人の日常や風土、つまり日本らしさに対する率直な表現、
つまり、日本人の心にある哲学が、松尾芭蕉という人物によって言葉として結実した。
そんなふうに思ったりする。
私は文学者ではないし、ちらりと本を読んだことがあるだけなので、
あくまでも、なんとなくの印象なんだけど。
松尾芭蕉の歌には、目に見える景色と心の中に広がる空間、
過去と現在と未来の関係が凝縮されている。
これは、哲学の領域の話だ。
どんな中国の古典をふまえて表現しているかを考えながら読む古典もいい。
それもひとつの教養だし、日本の文化だ。
でも、もっと重要なのは、毎日の空気の中で感じる日本人にしかない心、
日本人なら、ふと共有できる感覚といったものを、
言葉として表現し、それを受け止めることではないだろうか。
長谷川櫂氏の『「奥の細道」をよむ』(ちくま新書)を読み、
次は、西行さんでも読んでみたくなった。