ゆっくり読書

読んだ本の感想を中心に、日々、思ったことをつれづれに記します。

サービスと愛情

2010-12-30 01:27:21 | Weblog
最近、不況とか雇用とか、そして政治とか、
日本経済が右肩上がりではないから話題になることを聞いていると、
日本はいきすぎたサービス国家なんだな、とすごく感じる。

お客さまを大切にしてきた日本の商業活動は、そりゃあもう素晴らしいと思う。
だからこそ、工業製品も世界に冠たるものになった。

でも、ものがあふれ、ある程度の飽和状態になると、結局は、付加価値の勝負になる。
そうなると、お金を払ってくれるお客さまを、ものすごく大切にする。
でも、みんながそれをするわけなので、
どんどんどんどん、無償サービスや至れり尽くせりのフォローが常態となる。

それは、買ってくれなかった人との差別化をより明確化するということだから、
お金を持っている人は、ますます「持つ」ことができて、
貧乏人は、いよいよ、みじめな気持ちが増すことにつながる。
そして、大企業の根幹の仕事はお金になるけれども、
付加価値の部分は、もともと利益をうみだすところではないわけだから、
それに携わっている人への報酬は、ますます抑えられる。

パソコンのインターネットも携帯電話も、
いろいろな無料サービスを利用することはできるけれど、
そもそもパソコンや携帯電話を買ってこそ、享受できるサービスだ。
だから、無料サービスを受けるためには、
それを使うための何らかの機器を買える人、サービスを受けることができる人に限定されてくる。

そして、お金を払った人は、過剰なフォローを要求するようになる。
このくらいは「自分のために」してくれて当然、と、考えるようになる。
そもそも、その商品を買うかどうかを考え、決断したのは自分だ、ということを忘れ、
あれもこれも、わからないから教えて~、やって~、だって買ってあげたんだよ、となる。
これは、単にみっともない。

確かに、持てる人と持てない人の違いは、非常にわずかな差だし、確かに理不尽だし、
考え始めれば、いろいろと不満の要素はあるけれど、
少し俯瞰して、次の世代を考えてみたら、ものごとや階級は、ある程度は流動的だと思う。
日本にカーストはない。
お金持ちの子どもは、つくられたエリートになると言われるし、
確かにその側面はあるのだけれど、でも、一概にすべてそうだとは言えない。

私がそう思うのは、
1949年以降の共産党の中国の歴史を見たときに、
文革やら粛正やらで、あれだけ文化人が殺されているにもかかわらず、
相変わらず、中国の最高峰の大学のレベルは、世界のトップクラスにある。
つまり、人間の可能性は、社会なんかが規定できる範囲を超えているものだ。
エリートの両親から、必ずしも頭のいい子どもが生まれるとは限らないし、逆もまたしかり、だ。

ただ、一つ言えるのは、自分1人の一生においては、理不尽の蓄積かもしれない。
思いどおりにならないことばかりかもしれない。
でも、だからこそ人には、子どもに夢を託す、ということがある。

いま、私たちの世代は、子どもを産まなくなった。
自分もそうだし、同級生を見ても、子どもを産むどころか結婚していない人も多数いる。
すごく貧乏するかもしれないし、苦労もさせてしまうかもしれない。
でも、そんな憶測をはねかえすだけの未来を、子どもは必然的にもっている。

私は、ゆがんだ権利を信じすぎてしまったのではないかと思う。
子どもにサービスする必要はない。
彼らが生まれながらに持っている生や知ることへの欲求。
それに正面から向き合うだけのことなのに、
これがやってあげられない、これが無理だ、こんなリスクがある、と考える。

世の中は変わる。
親がやってくれたのと、まったく同じことを子どもにしてあげることは無理かもしれない。
でも、愛することはできるだろう。愛を伝えることはできるだろう。
私が両親からもらったのと同じくらいの愛は。

人間の歴史の中で、
結局、伝わってきたのは、煎じ詰めるとそれに尽きるのではないかと思えてきた。