上海の地下鉄で、チベット語の文字を暗記していたときに、ふと思い出した。
いまから約20年前、大学4年生で卒論を書いていたときのことだ。
卒論の主査の先生からは、中国文学を卒論のテーマに選ぶように
かなり説得されたのだけど、
結局私は、モンゴルによる中原支配をテーマに選んだ。
本当は、モンゴル帝国自体をテーマにしたかったのだけど、
あまりにも中国文学から離れてしまうことに対する申し訳なさを感じ、
なんとなく対象エリアだけは「中国」にしてみた、という卒論だった。
ただし異端なので、参考とする文献の正当性から教授たちを説得する必要があった。
そして、それでも認めてくれた教授たちは、とても心が広かったと思う。
ある日、卒論の進行状況に関する質疑応答が終わった後、
主査と副査の先生から、こう言われた。
「あなたは、卒業後、どうする予定なのですか?」と。
「就職が決まっているので働きます」と答えたら、
「大学院に進むと言う選択肢はないのですか?」と言われた。
私は「母が病気なので、経済的に自立する必要があり、
本当は内蒙古大学あたりに留学したいですけど、いまは無理です」と答えた。
そしたら先生方は「そうですか、残念ですね。
将来、必ず、学問の世界に戻ってきてください」と言ってくれた。
そして、「東洋学の祖である那珂通世博士は、もともと支那の専門家だったけど、
支那を理解するには、周辺の民族のことも知る必要があると思われ、
40歳で満洲語とモンゴル語を学び始めたと聞きます。
そして、モンゴル語と満洲語の文字の基礎となったチベット語にも通じていらした。
確かに仕事をして、社会を見るのは必要なことです。
でもあなたの価値観は学問にあると思うから、必ず戻ってきてください」と。
そして、卒論の最後の口頭試問の日、無事クリアした後に教授たちはこう言った。
主査の先生は、「せっかくそれだけ中国語ができるのだから、
中国でも文革のせいで失われてしまった中国文学の担い手となってください」と。
副査の先生は、「その中国語力を公用語として活かして、
中国に取り込まれてしまったが故に、いままさに失われつつある周辺民族の文化を
引き継ぐ役割も忘れないように」と。
正直言って、当時の私は、生活のことで頭がいっぱいで、
学問なんて生活の余裕がある人がするもの、私には縁がない高嶺の花。
そもそも、そんなに頭よくないから、無理だし、と思っていた。
でも、本当は、そのまま学問を続けたかった。
いまから振り返ると、方法はあったと思うけれど、
世間知らずの一大学生には、わからないことだった。
いまから思うと、私の教授たちの時代は、まさに学生時代から文革の影響を受け、
中国文学の専門家となっても、
中国人の中国文学の専門家と、政治を抜きにした、学究の話がしづらく、
本当に残念な気持ちでいっぱいだったのだろうと思う。
そしていまはもっと、書き換えられた中国の歴史しか知らない中国人の若者ばかりだ。
話したくても、基礎が違いすぎる。
とにかく、物覚えが低下中の脳みそに喝を入れて、
少しずつチベット語を覚えて行こう。
週に3回くらいはやらないと上達しない気がしているので、
これを打開する方法を模索中。
いまから約20年前、大学4年生で卒論を書いていたときのことだ。
卒論の主査の先生からは、中国文学を卒論のテーマに選ぶように
かなり説得されたのだけど、
結局私は、モンゴルによる中原支配をテーマに選んだ。
本当は、モンゴル帝国自体をテーマにしたかったのだけど、
あまりにも中国文学から離れてしまうことに対する申し訳なさを感じ、
なんとなく対象エリアだけは「中国」にしてみた、という卒論だった。
ただし異端なので、参考とする文献の正当性から教授たちを説得する必要があった。
そして、それでも認めてくれた教授たちは、とても心が広かったと思う。
ある日、卒論の進行状況に関する質疑応答が終わった後、
主査と副査の先生から、こう言われた。
「あなたは、卒業後、どうする予定なのですか?」と。
「就職が決まっているので働きます」と答えたら、
「大学院に進むと言う選択肢はないのですか?」と言われた。
私は「母が病気なので、経済的に自立する必要があり、
本当は内蒙古大学あたりに留学したいですけど、いまは無理です」と答えた。
そしたら先生方は「そうですか、残念ですね。
将来、必ず、学問の世界に戻ってきてください」と言ってくれた。
そして、「東洋学の祖である那珂通世博士は、もともと支那の専門家だったけど、
支那を理解するには、周辺の民族のことも知る必要があると思われ、
40歳で満洲語とモンゴル語を学び始めたと聞きます。
そして、モンゴル語と満洲語の文字の基礎となったチベット語にも通じていらした。
確かに仕事をして、社会を見るのは必要なことです。
でもあなたの価値観は学問にあると思うから、必ず戻ってきてください」と。
そして、卒論の最後の口頭試問の日、無事クリアした後に教授たちはこう言った。
主査の先生は、「せっかくそれだけ中国語ができるのだから、
中国でも文革のせいで失われてしまった中国文学の担い手となってください」と。
副査の先生は、「その中国語力を公用語として活かして、
中国に取り込まれてしまったが故に、いままさに失われつつある周辺民族の文化を
引き継ぐ役割も忘れないように」と。
正直言って、当時の私は、生活のことで頭がいっぱいで、
学問なんて生活の余裕がある人がするもの、私には縁がない高嶺の花。
そもそも、そんなに頭よくないから、無理だし、と思っていた。
でも、本当は、そのまま学問を続けたかった。
いまから振り返ると、方法はあったと思うけれど、
世間知らずの一大学生には、わからないことだった。
いまから思うと、私の教授たちの時代は、まさに学生時代から文革の影響を受け、
中国文学の専門家となっても、
中国人の中国文学の専門家と、政治を抜きにした、学究の話がしづらく、
本当に残念な気持ちでいっぱいだったのだろうと思う。
そしていまはもっと、書き換えられた中国の歴史しか知らない中国人の若者ばかりだ。
話したくても、基礎が違いすぎる。
とにかく、物覚えが低下中の脳みそに喝を入れて、
少しずつチベット語を覚えて行こう。
週に3回くらいはやらないと上達しない気がしているので、
これを打開する方法を模索中。