ゆっくり読書

読んだ本の感想を中心に、日々、思ったことをつれづれに記します。

エデンの命題

2009-10-20 21:11:39 | Weblog
島田荘司著、光文社文庫

この本で、アスペルガー症候群という言葉をはじめて知った。
いつも「なんとか症候群」と聞くと、どこで線引きされるんだろうと疑問に思う。
こんなにたくさん「症候群」があると、
世の中、そんな人だらけになってしまうのではないか、
自分もなにかカテゴライズされるのかな、と思う。

本人にとっては、それがリアルな世界なわけだから、
あなたには先天的にこんな疾患があって・・・、と言われたとして、どう感じるのだろう。
若い頃ならショックかもしれないけど、
私くらいの年齢になってからだと、
過去にあった失敗や自己嫌悪のほうが重いから、
いまさら疾患があると言われても、「あっそう」くらいかもしれない。

ああ、でも、健康診断でいろいろと出て来ると、
それなりにショックを受けるものだから、やはり落ち込むのかなあ。

いずれにせよ、周囲の人をありのままに受け止めると言うのは難しいもの。
その1つの入り口が「症候群」という言葉にあるのなら、
それもまあ、よいと思う。

「エデンの命題」のほかにもう一作、
「ヘルター・スケルター」という作品も収録されていたんだけど、
こちらは、アメリカの一側面を見たような気持ちになる文章だった。

ビートルズの曲は、なんとなく印象に残っているから、
「ああ、聞いたことある」と思うけれども、
正直なところ、私にとっての「ツボ」ではなくて、のめり込んだことはない。
でもまあ、一度聞いてみよう。

ベトナム戦争は、アメリカという社会に、
カゲを落としつづけているのだなあ、と思ったけど、やはり私にとっては他人事。
遠い遠い戦争。

幼いころ、両親がベトナム戦争について、語り合っていたことがある。
たぶん、映画「地獄の黙示録」の話からの流れだったと思う。

それは、とてもとても美しい日曜の午後のことで、
私は、この世に戦争があるなどと信じられなかった。
それからも地球上では戦争があり、私の知識は増えたけれども、
やはり実感はともなわない。
あるのどかな午後に、人から聞いた話という程度。
心のどこかに罪悪感が浮かぶけれど、すぐ忘れてしまう・・・。
それが日常。

路上のソリスト

2009-10-20 12:42:33 | Weblog
昨日レイトショーで「路上のソリスト」を観た。

月曜のレイトショーは人が少なくていい。
映画の内容も、どちらかというと一人でこもって見るタイプのものだったし、
ホームシアターみたいだった。

この映画は、ロサンゼルスタイムズ紙に実際に載ったコラムをもとに
映画化したものだということで、
なかなか社会や人間の心の中などを、丁寧に描いた作品だった。

ストーリーは、ある日、記者が、路上生活をしている天才的なチェリストに出会って展開する。
そして2人の心の交流と音楽の世界を中心にして、
リストラ、人種問題、生活の格差、アライグマに荒らされた庭など、
いまのロスや、そこに暮らす人の気持ちがギュッと詰めこまれている。のだと思う。
ただ、私はロスに行ったことはないし、アメリカに住んだこともないので、自信を持っては言えない。

私が一番印象的だったシーンは、
記者がチェリストと一緒にベートーベンの曲を聴いた後、妻に語るところ。
大興奮状態で、「隣で音楽にすべてをゆだねているチェリストを感じたのだけど、
あの感覚は本当に初めてのものだったと、あれは何だったのだろう」と語ったら、
元妻が「恩寵よ」とこたえる。

チェリストに与えられた才能も恩寵ならば、その日その場で、
それを感じた記者の感性がそこに向かっていたこと、それも恩寵だ。
もっと言うと、ベートーベンがその曲を書いたことも、
その曲を愛して演奏しつづけた人たちがいたことも恩寵。

なにか大きなものに触れたとき、その前に頭をたれ、感謝したくなる。

その気持ちは、いついかなる時も、どんな場所でも、
誰であっても、かならずある。
それが「恩寵」「神の愛」、どんな言葉であっても、表現はなんでもいい。
私はクリスチャンではないけど、すごくいい台詞だった。

ただ、アメリカ映画でいつも不思議なのは、
離婚した男女が、「ボクたちの過去はこうだったよね」と語り合い、
すごく親密そうにしていること。
そんなふうに過去が語れるのなら、離婚しなきゃいいじゃない。
会話ができないから別れるんじゃないの?と、質問したくなる。

あと、公の場で、女性が酔ってクダを巻いたり、難癖をつけたり、
イヤミを言ったりするシーン。
これも現実によくあることなのだろうか。
まあ、あるんだろうなあ。描かれるんだから。

久しぶりに、どっかん、ばったん、びゅーではないアメリカ映画を観て、
とても楽しかった。

音楽の楽しみ方

2009-10-19 09:42:54 | Weblog
昨日、上野の文化会館にブラームスの交響曲第4番を聞きに行った。

私がはじめてクラシックのコンサートに連れて行ってもらったのは小学校3年生のとき。
確か、年末の第九だった。
私も母も、クラシックの曲が大好きだったので、
当時貧乏だった母は、マメにハガキ応募をして、クラシックのチケットを入手してくれた。
くじ運がいいときは、1カ月に2~3回、聞きに行ったこともある。

舞台が少し明るくなって、団員さんたちが席につき、演奏前の音合わせをする。
あの音が聞こえてきただけで、鳥肌が立った。

ブラームスの交響曲は、小学生の頃から好きだった曲のなかの1つ。
一番好きなのは、3番の第3楽章。
4番は、最初の入り方がすごく好きだ。

聞いているうちに、いろいろなことが頭に浮かんだ。
私は、西洋哲学や思想関連の本を読むと、無性にブラームスが聞きたくなることがある。
読んでいるときのBGMというよりも、読後に聞きたくなる。

そして聞いてみると、
これまでに読んできた本のなかで、理解が追いついていなかったところのイメージが、
音の感覚になって、なぜかピタリとはまってくることがある。

それに本の内容だけでなく、いろいろな人の一言や表情、
「ん?」と引っ掛かって、その後、深層心理のどこかに埋もれつつ燻っていた何かが、
なんとなく自分のなかで整理できてくる。

そして昨日は、はじめて文化会館でブラームスの4番を聞いたときのことを思い出した。
元気だったころの母の顔と声も、久しぶりに浮かんだ。
ちょうどあの頃、母は父との離婚のことで悩んでいた。
どんな気持ちでこの曲を聞いたのだろう。

私は幼いころから、ずっとクラシックの曲が好きだけれども、
純粋に「音」として楽しむことは、どうやらできないらしい。

音のイメージから浮かぶ自分なりのストーリー、
それがたとえ細切れのもので、ほんの一瞬の印象であったとしても、
波のようにやってくる「何か」、そう、心象風景のようなものが好きなのだ。

そして、曲の楽しみ方や好みは、どうやら小さい頃から変わっていないようだ。
いったいいつ頃、この趣味嗜好は決まったのだろう。
生まれたときからそうだったような気もするし、
何かの影響でそうなったような気もする。

ただ、クラシックを聞くと、私は自分の過去も現在、そして未来も、
すべてが融合するような、少しずつ変化をしつつも「あり続ける何か」を感じる。

音の技法、楽器の奏法から、音楽を深める人は音楽家となり、
私のような人間は、その喜びを享受する側にいる。
私から見ると、音を奏でることのできる人がうらやましく、
向こうから見ると、純粋に自分のためだけに音を楽しめる人がうらやましいかもしれない。

そして、その世界が広がればいいと思う。

イルカは賢い、ペンギンは天然

2009-10-17 22:14:59 | Weblog
今日、名古屋にある水族館で、イルカのショーを見た。
すごくすごく賢いんだ。イルカは。
いったい何歳くらいの知能があるのだろう。
もしかしたら、イヌ(のなかでも賢い犬種)よりも賢いのではないだろうか。

いっぽう、ペンギンは天然っぽくてよかった。
大きなペンギンが、岸辺に立っていた。
どうやらそこは、プールから上がるポイントの1つだったようで、
何羽ものペンギンが、水から飛び上がっては、大きなペンギンに体当たりし、
跳ね返されて、水にドボンっと落っこちていた。

ペンギン同士によるお腹とお腹の「つるん・ぽん」としたリズムのふれあいが、とても面白かった。
かわいい。

以前、八景島で、初めて水に飛び込もうとして、
よーい、の体勢のまま、勇気が出せずに固まっている子ペンギンを見たことがある。
かれこれ10分以上、水面とにらめっこをしていた。
すると、後ろからちょっと年上のペンギンが来て、わざと少し体当たりしていった。
子ペンギンは足をすべらせて、足からどぼんと水の中へ。

焦りながらも、しだいに水の中で飛び始めた。
本能の勝利。

あの瞬間の観客(人間)の「あ~っ」という声もよかった。

動物園、水族館は、たまに行くと、やっぱり楽しいなあ。

スタミナ

2009-10-16 22:51:44 | Weblog
国内のそこそこ大きい都市にあるビジネスホテル。
隣の部屋に中国人が泊まっている。

かれこれ1時間くらい、ずっと誰かと電話で話をしている。
聞き取れるくらいだから、声がでかい。
しかも、その大きさで、ずっと話しつづけている。
で、会話が前に進んでいるようだから、
きっと電話の相手も同じくらいの量を話している。

電話なのに、おそらく声がかぶりながら話が進んでいる。

すごい芸当だ。
というか、中国人は全般的に、なぜ、あんなに声が大きいのか・・・。
私だったら、あんな大声で話しつづけたら、
夜23時ともなればヘロヘロになっているだろう。

そして、彼らはなぜ、みんなで一気に話をして、
ちゃんと相手が言っていることを聞き取ることができるのか。

もしかして、相手が言っていることは、ほとんど聞いていないのではないか。
でも、その場にいる当事者は、ちゃんと話が前に進んでいると
信じているようだから、ちゃんと聞いているし、前進しているのだろう。

同じ東洋人だけど、DNAが違う人たちだなあ、と思う。

ああ、歌をうたいはじめた。
なぜ、電話で、鼻歌をうたわなければならないのか。

中国語は聞き取れても、やっぱりわからない、と思うことが多い。

ノスタルジー

2009-10-16 00:15:20 | Weblog
あるドラマを見ていたら、
そこで出演していた俳優さんの声がきっかけとなって、ふわっと過去が浮かんだ。

私が小学生だったころ、NHKで人形劇の「三国志」をやっていた。
本格的に中国史にハマるきっかけとなった番組だった。

人形劇の「三国志」で、諸葛亮という人物を知り、
その後、飼うことになったイヌに「リョウ」という名前をつけた。

母が一番好きだったのは関羽で、私が一番好きだったのは趙雲だった。
最終的に母がイヌの名前をリョウにしよう、と言ったとき、
私は、なぜ関羽さんから名前をもらわないのか、と訊いた。

母は、関羽さんは好きだけど、あの義理は見ていてつらい。
イヌというものは、そうでなくても飼い主に対して忠実なもの。
なのに、義を重んじる人の名前をもらったら、たぶんあの子はつらすぎるよ。
それよりも、自分の頭で時代を切り開いた人から名前をもらおう、と言われた。

あの俳優さんは、一時期スキャンダルで騒がれたけど、
私は、それでもなお、諸葛亮の声の表現は素晴らしかったと思っている。

劉備が死を迎えるとき、
雨の城壁で諸葛亮が泣くシーンがあった。
人形劇なので、人形の表情は変わらない。
でも、本当に、臓腑から泣いていると感じた。

いつか五丈原に行きたい。
久しぶりに、そんな気持ちになった。

まだまだ遠い

2009-10-15 18:34:46 | Weblog
昨日、久しぶりに神田の古本屋街をぶらぶらした。

古本屋さんに並ぶ本を見ていると、人間ってスゴいなあ、と思う。
最近は、函入りの本が減ったけれども、
昔は、ずっと保存することを前提にしていたからか、
しっかりとした作りの本が多い。

手にとって、そっと函から出す。まず、これだけでうきうきする。
そして、パラパラとめくると、
たまにお香のかおりがしてくる本があったり、
きっと大事にされてきたんだろうなあ、と感じる本当に古い本があったりして、
なんとも本と語り合いたくなる。

思わず「元朝秘史」の研究書を手にとって、よく理解できないながらもニヤニヤし、
シルクロードの紀行文を開いては、「ほっほーう」と声をあげそうになったり、
私としては、とても幸せな時間だった。

2時間もウロウロしていたわりには、最終的に買ったのはたった一冊。
2000円がついていた「中国の古典10 漢訳仏典」。
決め手は、有名なお経について、漢文からの書き下し文、現代日本語訳が載っているだけでなく、
漢文プラス返り点がついているだけの経典が、別冊でついていたから。
お経そのものを読んでみたいと思っていたので、これに決めた。

なぜか古本に囲まれていると、
私の歩もうとしている道は、まだまだ遠く、果てしなく続いている、と思う。
この人生の残り時間だけで、間に合うだろうか、とも思う。
普通の本屋さんでは、あまりこんな感慨はもたない。

それは、古本を見ると、長い歴史をかけて積み重ねられてきた人間の探究心のかけらが、
いま私の胸をたたいている、と感じるからではないだろうか。
新刊には、その要素がすべて詰まっているかもしれないけれども、
でも、それだけでは、その時間の重さ、というものを感じることはできないと思う。

本の再販については、いろいろと言われるけれども、
私は古本屋さんが大好きだから、ずっと続いてほしいと思っている。

やさぐれたい日

2009-10-15 01:27:29 | Weblog
どうしようもなく、やさぐれたい日、わたしはタバコを吸う。

普段は気管支が弱いし、絶対タバコなんて、という私だけど、
こんな日はタバコを吸う。

今日はそんな日だった。

生前の父を知る人と話をした。
なぜ父はパスカルで止まり、実存にまで行かなかったのかと言われた。
だから私は、母は、サルトルをこよなく愛していた、と答えた。

でもそこにも、植物状態の人間と十何年に及ぶ月日を過ごす、という意味において、
それを越える考え方はなくて、
私は、強制収容所における生を考えざるを得なかった。
そして、その話をするとき、
父は、それまで健康のためにと守って来た禁酒と禁煙をやぶらざるを得なかった、
と語った。

それによって、父の死期は早まったかもしれない。

ただ、私はそんなとき、ダースベイダーの気持ちをダイレクトに感じ取る。
飛躍しすぎかもしれないけど、そう思う。

私は両親とは違ったかたちで、そして同じ意味で、
自分が生きている、ということを直視したいと思っている。

「引きこもり」は許容するけれども、
一歩飛躍したいと、本気で思っている。

だって、社会なくして個人はあり得ない。そう思うから。
自分を解放するには、引きこもるのが一番の手段かもしれない。
でも、引きこもる、という手段は、社会なくしてあり得ない。

だから、社会は、必然的にある。

ある、ということは、群衆がある、ということだ。
顔の見えない他者がある、ということだ。
もし、それらに背を向けて引きこもるとしたら、
それは、問題を先送りにしているに過ぎない。
そう思う。

だから、社会を真摯に受け止めたいと思っている。
いまの私にできる範囲においてだけど。

そう思うと、いつもやさぐれる。

でも、そんな日も、わたしにとってはとても重要だと思う。

物語を考える

2009-10-13 15:38:54 | Weblog
今朝の通勤電車の中で、ふと、小さなストーリーが浮かんだ。

浮かんだ話の断片を構成していくと、
昔読んだ何かや、どこかで見た何かに近くなっていってしまうのだけれど、
自分なりに、そこそこ気に入ったストーリーにまとまった。

そして、骨子ができたところで細部を考え始めると、
知らず知らずのうちに、
実際に行った場所での思い出や、好きだったこと、興味のあったことを中心に考えていた。

私は私という「枠」を越えることはできない。
でも、比較的好きなことをやってきた人生だったんだなあ、と思った。

20歳のときに、シルクロードというか砂漠の序の口へ行って、
それでも、なんてスケールが大きいんだ!と感動した。
濁流のような黄河の流れを見て、日本の川では感じたことのないような恐怖を覚えた。

日本では、四季のうつろいが美しくて、
草木の変化で、自然の息吹を感じるけれども、
大陸で見た自然は、地球という大地じたいが生きていると
感じるような迫力があった。

アフリカの風は、どんなにおいがするのだろう。
北欧の白夜は、どんなふうに雪を照らすのだろう。

もっともっと見てみたい、体験してみたいと思うものが出て来た。

ああ、そうだったなあ、私はこんな人間だった。
物語を考えているうちに、そんな気持ちになった。

カサブランカ

2009-10-09 15:10:42 | Weblog
昨日、無性にカサブランカが見たくなって、
夜の10時半くらいからDVDをひっぱり出してきた。

小学生のときにはじめてこの映画を見たとき、
イングリッド・バーグマンの姿にあこがれた。
特にリックの店に入ってきたときの白い洋服が印象的で、
それから、お花のカサブランカも大好きになった。

1943年にアメリカでは、こんな映画を撮っていたんだ。
すごいなあ。

私は両親の影響で、幼いころから名画を見る機会にめぐまれていたと思う。
いま、何かがいかされているとは言えないけど、
映画を楽しむことは残っている。
もしかしたら、すごい財産をもらったのかもしれない。

最近の映画は、テンポはいいけれども、考えつくされている、と感じることが減った。
俳優さんの演技も、見ているうちに呑み込まれているような、
そんな迫力が減った。

実体験が減ったから、なんて陳腐な言葉ではまとめたくはないけど、
あまりにも全体が雰囲気だけで構成されているんじゃないかと思う。

それができるのは、ほんとの天才だけ。
そして、そんな人はほとんどいないような気がする。